ラモント・ドジャーと言えば、ブライアン&エディのホーランド兄弟と組んだソングライター/プロデューサー・チーム、ホーランド=ドジャー=ホーランド(以下H=D=H)の“D”であることは、皆さん百も承知だろう。



ダイアナ・ロス&ザ・シュプリームス“Where Did Our Love Go”、フォー・トップス“Reach Out I'll Be There”、チェアメン・オブ・ザ・ボード“Give Me Just A Little More Time”、フレッダ・ペイン“Band Of Gold”などなど、60~70年代のモータウンやインヴィクタス/ホット・ワックスでノーザン(デトロイト)・ソウルの傑作曲を書き上げてきたH=D=H。



90年にロックン・ロールの殿堂入りを果たした彼らの偉業については、もはやここで多くを語るまい。ラモントはそんな黄金トリオの一員として、また同時にシンガーとしても幅広い才能をアピールしたミュージック・メイカーである。





1941年6月16日にミシガン州デトロイトで生まれたラモント。



彼のシンガーとしての経歴を見てみると、これが結構古く、50年代後半にはタイ・ハンター(グラス・ハウス~オリジナルズ)やリオン・ウェアが在籍していたとされるロミオズというコーラス・グループで既に歌っている。



また、ソロとしては、61年にゴーディの姉妹レーベルであるアンナからラモント・アンソニー名義によるシングルを発表したことで、その第一歩を踏み出している。



63年からは以後5年間に渡ってH=D=Hの一員としてモータウンのヒット曲を量産し続けるラモントだが、67年にモータウンを離脱して(H=D=Hが)インヴィクタス/ホット・ワックスを設立すると、彼はプロデュース業の傍らシンガーとしての活動も再開。



ここで72年にヒットさせたのが、あの“Why Can't We Be Lovers”である。せつなくも美しい傑作ソウル・ナンバーだ。もっともシンガー活動の再開と言ってもラモントの一人舞台ではなく、それはH=D=Hの臨時アーティスト活動のようなもので、楽曲もブライン・ホーランドとのデュオ名義のものが中心。



しかし、この時期の音源は後に『Love & Beauty』というアルバムでひとまとめにされ、ラモント・ドジャー名義で発表されているので、とりあえず世間的には同作が彼のデビュー作となっているようだ。



H=D=Hが解散した73年には、ラモントはABCレコーズとソロ契約。



同社からは、『Out Here On My Own』(73年)と『Black Bach』(74年)の2枚を発表している。ともに後のラモントのソロ活動を支えることになるマッキンリー・ジャクソンのプロデュース。ニュー・ソウル感を打ち出し、インヴィクタス時代の香りも残したなかなかの仕上がりで、ポール・ライザーやジーン・ペイジらによる弦アレンジも秀逸だ。



この時代の作品は評価もまちまちだが、個人的にはむしろ好んで聴いているぐらいだ。前者に収録された“Trying To Hold On To My Woman”は現在のところ彼の最大のヒット曲となっている。



ABCではもう1枚、『Prophecy』というタイトルでアルバムを制作していたようだが、どういうわけかお蔵入りに(うち数曲はマージー・ジョセフの76年作『Hear The Words, Feel The Feeling』で取り上げられた)。



2000年になってようやく、冒頭で触れたエクスパンションの編集盤にて陽の目を見ることになった。



ワーナー・ブラザーズへ移籍した76年以降は、西海岸を中心としたソウル~ジャズ系の一流ミュージシャンを招いて3枚のアルバムを制作。ナイス・グルーヴな傑作曲を多数収録した自己プロデュース作『Right There』(76年)、オデッセイのカヴァーでも知られるガラージの人気曲“Going Back To My Roots”を収録したステュアート・レヴィン制作(クルセイダーズ一派も参加)の『Peddlin' Music On The Side』(77年)、それに元モータウンのフランク・ウィルソンがプロデュースし、アンジェラ・ウィンブッシュもソングライトで参加したディスコティックな内容の『Bittersweet』(79年)と、いずれも聴き逃せない好作ばかりだ。