ザ・ズートンズ
結成からデビュー作リリースまで
フロントマンのデヴィッドがボーヤン、ショーン、ラッセルを次々と誘い、数ヵ月後にアビが加わり、2002年半ば、ロックン・ソウル5人組ザ・ズートンズはリヴァプールにて産声を上げた。彼らが登場したリヴァプールというシーンは、これまでもザ・ビートルズ、ペイル・ファウンテンズ、エコー&ザ・バニー・メン、ザ・ラーズといった多くの革新的なバンドを数多く生みだしてきた。ザ・ズートンズはその系譜の最新型と言えた。2002年9月には早くもバンドにとっての最初のリリースとなるシングル“Devil’s Deal”をザ・コーラルと同じデルタソニック・レーベルよりリリースしたが、さっそく、ザ・コーラルを中心として再浮上したリヴァプール・シーンに注目したメディアの浮かれ騒ぎに巻き込まれることになった。「前は『ザ・コーラルみたいだけど、彼らほどは良くない』と思われていたんじゃないかな?僕らにとってはいい迷惑だったよ。僕らは結成してまだ半年しか経っていなくて、右も左もわからなかったんだから」とデヴィッドは振り返った。しかし、「僕らは皆スライ・アンド・ザ・ファミリー・ストーン、トーキング・ヘッズ、DEVOみたいになりたいと思ってた。ジャズとファンク、ソウルとカントリーを交差させたかったんだ。全てを混ぜ合わせて、一つの曲に色んなアングルを持たせたいと思っていたんだけど、やっとそこへ到達したんだよ」とデヴィッドが語っているように、自分たちのやり方がはっきりと見えてきた翌年5月には、「これが新しい出発」と一念発起して、続くシングル“Creepin’An’A Crawlin’”をリリース。2003年の後半は、プロデューサーに元ライトニング・シーズのイアン・ブロウディーを迎えアルバムの制作に着手し、2004年春、デビュー・アルバム『誰がザ・ズートンズを殺ったのか/Who Killed The Zutons?』をリリースした。アルバムに先行してUKでリリースされたシングル“プレッシャー・ポイント”は全英チャート13位に飛び込み、新人バンドとしては快挙といえるヒットを記録。ダークなニューオーリンズ風味のソウル・クラシックで、「仕事から帰宅して最初の10分の、皆殺しにしたくなるような気分」(デヴィッド)を歌ったナンバーである。50’sロックンロール、60’sソウル/サイケデリック、70’sファンク、80’sニュー・ウェイヴ、90’sマッドチェスター/ブリット・ポップ…それらを全て天才的な本能で掘り起こし、新たな魂を吹き込んだザ・ズートンズ。メディアは騒ぎ立てた。
「ザ・ズートンズは、2004年最も活躍を期待される逸材!」、「人呼んでゾンビー・ソウル・ミュージック!」と。


デビュー・アルバム大ブレイクまで
2002年に興ったロック・ニュージェネレーションのムーブメント。ザ・ミュージック、ザ・コーラル、ザ・リバティーンズ、ザ・ラプチャー、ザ・ホワイト・ストライプス、キングス・オブ・レオン、ザ・ダークネス、MEW…数々のバンドが英国から、または英国シーンの支持を受けて登場した。ここ日本でも彼らは大いに熱狂を持って迎えられたが、それを上回る勢いで“ブリット・ポップ”からちょうど10周年にあたる2004年のUKシーンは初っ端から近年にない盛り上がりを見せていた。レイザーライト、オーディナリー・ボーイズ、ザ・スティルズ、The 22-20’s…続々と話題のニュー・バンドが、そして傑作シングルが登場し話題を振りまく中、最大の新人として注目を集めていたグラスゴー出身の4人組フランツ・フェルディナンドと共に、ザ・ズートンズも英NME紙による“THE NME HOT LIST 2004(2004年注目の新人10組)”に選出された。が、その後のザ・ズートンズは、ことメディアでの騒がれ方に関してフランツと比べるならば“超ド級”とまではいかなかった。表街道を突っ走るフランツとは壁を隔てたもうひとつ(オルタナティヴ)の世界を奔走するように、裏番長ザ・ズートンズはとにかくツアーのドサ回りによってじわじわとその人気を確立していったと言える(ライヴの評価は極めて高く、フジ・ロック’04でも新人の中ではトップ・レベルの話題をさらった)。アルバムは売れ続け、最終的には本国UKで70万枚近いセールスを記録するに至り、結果、フランツと共にブリティッシュ・ロックの新たな黄金期を創り上げたのだった。