パティ・スミス

パティ・スミス(本名パトリシア・リー・スミス、1946年12月30日生)は、先頃他界したテレヴィジョンのトム・ヴァーレインと共に、1970年代半ばにニューヨークのライブハウスCBGBを中心に勃興したパンク・ロック・シーンの中心人物の一人として台頭、「歌う女性ビート詩人」「パンク・ロックの女王」と称されてその後に続くパンクやニューウェイヴ・ロック・シーンの先駆者の一人として音楽や芸術・出版による唯一無二の存在感をもった表現活動を今も続ける、ロック・アイコンの一人だ。

 シカゴで元ジャズ・シンガーの母と電気製品メーカーの機械工の父の間に生まれたパティは、4歳の時家族とニュージャージーに移住、地元の高校から州立大学に入学。在学中シングル・マザーとなり子供を養子に出すという壮絶な経験をした彼女はこの頃からニューヨークで自分を表現することを夢見はじめたようだ。この頃音楽的には、ボブ・ディランの『アナザー・サイド・オブ・ボブ・ディラン(Another Side Of Bob Dylan)』(1964)に巡り会い、強く影響を受けることになる。後に2016年ノーベル賞文学賞を受賞したボブの代わりに授賞式で「はげしい雨が降る」を歌うことになるのだが当時そんな運命は夢想だにしなかっただろう。また詩の世界に没頭し始めたのもこの頃で、少女時代のパティの憧れは革命精神溢れる19世紀のフランス人詩人、アルチュール・ランボーだったという。

 1969年にニューヨークに居を移したパティは、書店で働いていたところこの後長く彼女のボーイフレンドとなる、前衛芸術写真家のロバート・メイプルソープとの運命の出会いを果たす。ロバートはパティの多くのアルバムのジャケ写を撮影し、二人の親密な関係は1989年にロバートがAIDSで他界するまで続いた。その関係については2010年のパティのメモワール『ジャスト・キッズ(Just Kids)』に詳しく記されている。

 この頃パティは、アーサー・C・クラークやアレン・ギンズバーグ、アーサー・ミラーら1960年代の著名な作家や詩人達が居所としていたホテル・チェルシーにロバートと住み始めた。この時期から1970年代前半にかけてのパティはもっぱらパフォーミング・アーツやライブのステージで詩の朗読をしたり、舞台劇に出演したり、ローリング・ストーン誌などにロック・ジャーナリストとして執筆したりといった活動を通じて、次第にニューヨークのアンダーグラウンド・シーンでのカリスマとしての存在感を増していった。

 自らの詩集も人気を集め始めた1973年、ミュージシャンでロック・ライターのレニー・ケイ(ギター)、リチャード・ソール(ピアノ)、アイヴァン・クラル(べース)、ジェイ・ディー・ドハティ(ドラムス)らと自らのバンドを組み音楽活動を開始、翌年にはジミー・ヘンドリックスのバージョンで有名な「Hey Joe」にパティの朗読を乗せたバージョンと自作の「Piss Factory」をカップリングしたシングルをリリース。歴史的な音楽活動のスタートを切ったパティは、以前ボーイフレンドでもあったトム・ヴァーレイン率いるテレヴィジョンと共に、1975年3月から2ヶ月に及ぶ週末のライブショーにパティ・スミス・バンドとして出演。人気のビート女性詩人のロック・パフォーマンスを見ようという観客と業界人でCBGBは連日いっぱいになったという。コロンビア・レコード社長時代にジャニス・ジョプリンやシカゴなど数々のロック・スター達を成功させ、パティに少なからず興味を持っていたと思われるクライヴ・デイヴィスが立ち上げて間もない新レーベル、アリスタと契約したパティは同年秋に記念すべきファースト・アルバム、『牝馬/ホーセス』をリリース、全米アルバムチャートのトップ50入りでパンク・ロックの歴史を華々しくスタートさせた。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのジョン・ケイルがプロデュース、パティ自作の詞を乗せながら静かに始まり後半荒々しくテンションを上げるゼムのカバー曲「グロリア」で始まるこの作品は、後の「パンク・ロック」というステレオタイプより遙かにパフォーミング・アーツ的なイメージを想起させるものだった。

 『牝馬/ホーセス』のヒットでシーンの表舞台に飛び出したパティは、全米やヨーロッパのツアーでファンの支持を得ながら、より荒々しいロック・サウンドのセカンド・アルバム『ストリート・パンクの女王/ラジオ・エチオピア』(1976)をリリースするも、ツアー中にステージから転落した事故でしばらく治療のため活動休止。しかし1978年シーンに戻って来たパティは、彼女唯一のトップ40ヒットでブルース・スプリングスティーンとの共作シングル「ビコーズ・ザ・ナイト」を含むアルバム『イースター』(1978)、そしてトッド・ラングレンがプロデュースし、ザ・バーズの「ロックン・ロール・スター(So You Want To Be A Rock And Roll Star)」のカバーを含むアルバム『ウェイヴ』(1979)と、よりメインストリームのオーディエンスにもアピールする、ニューウェイヴ的なスタイルのサウンドでその存在感を改めてシーンに示した。

 パティは『ウェイヴ』のリリースの前後にそれまで付き合っていたアレン・レイニア(ブルー・オイスター・カルトのキーボーディスト)と別れて、パティ自身によると彼女のセカンド・アルバムの影響の元だったというガレージ・ロック・バンド、MC5のギタリスト、フレッド・“ソニック”・スミスと出会い、1980年に結婚。デトロイト北部のフレッドの実家に移り住み、息子のジャクソン(1982年生)とその後ミュージシャンとなった娘のジェシ・パリス(1987年生)の2人を出産するなど、1980年代はパティに取っては家庭生活に専念し、音楽活動から再び一時遠ざかるデケイドとなった。

 1988年に夫フレッドとの共作となった9年ぶりのアルバム『ドリーム・オヴ・ライフ』をリリース。フレッドの影響を思わせるストレートなロック・サウンドの「ピープル・ハヴ・ザ・パワー」で始まるこの作品でパティ復活か、と思われたが、1989年には長年親密な関係だったロバート・メイプルソープが、そして1994年には夫フレッドが心臓麻痺で他界、更にバンドメンバーのリチャード・ソールと弟のトッドを亡くすなど、大事な人々を相次いで失ったパティは再び音楽活動を停止して子供達との生活に戻ることに。しかし、古くからの友人であるビート詩人のアレン・ギンズバーグやR.E.M.のマイケル・スタイプらの強い勧めで、パティは息子ジャクソンが14歳になった1996年にニューヨークに戻り、ボブ・ディランのツアーに参加、音楽活動への復帰を果たした。同年リリースされ、荒涼としたイメージのアルバム・ジャケットが印象的な『ゴーン・アゲイン』は夫フレッドと同じ年に自殺したニルヴァーナのカート・コバーンに捧げた荘厳な「About A Boy」など、近親者たちの死という出来事に対して静かに向き合うパティの意思を感じさせる楽曲で構成された作品だ。パティはその後相次いでアルバム『ピース・アンド・ノイズ』(1997)、『ガン・ホー』(2000)をリリース。『ピース・アンド・ノイズ』に収録された、1950年代の中国のチベット侵攻をテーマにした「1959」はパティに初のグラミー賞ノミネート(最優秀女性ロック・ボーカル・パフォーマンス部門)をもたらし、彼女の表現活動が形として広く評価され始めるきっかけとなった。2002年にはアリスタ最後のリリースとなった、プリンスの「ビートに抱かれて(When Doves Cry)」のカバーを含む彼女の作品を総括したボックスセット『ランド(1975-2002)~グレイテスト・ヒッツ』を発表、1997年に初来日した後、2001年・2002年にはフジ・ロック・フェスティバルに出演。一方ピッツバーグのアンディ・ウォーホル美術館ではパティ・スミスの個展『Strange Messenger』(翌年日本のパルコ美術館でも開催)が開催され、2001年の同時多発テロ時のニューヨークを描いたパティの絵画作品やパティの手による写真、執筆原稿などが展示されるなど、21世紀に突入したパティは音楽、芸術双方の分野で精力的な活動を展開していた。

 コロンビア移籍第1弾となったアルバム『トランピン』(2004)で新たなスタートを切ったパティは、翌2005年にはロンドンで開催された音楽と芸術の融合フェス、メルトダウン・フェスティバルに出演して『牝馬/ホーセス』の全曲再現ライブを敢行するなど音楽活動のギアを一段上げる。一方、フランス文化省から芸術文化勲章を授与されるなど、彼女の音楽の実績と功績は今や世界中で高く評価されるに至っていた。2006年には、営業停止が決まったCBGBの最終公演日のトリを務め、3時間半に亘る熱演でかつて自分の音楽キャリアのスタートとなったライブハウスの30年余の歴史に自ら感動的な幕引きを行った。2007年にロックの殿堂入りを果たしたパティは同年初めてのカバー・アルバム『Twelve』をリリース。ジミ・ヘンドリックスの「Are You Experienced?」やティアーズ・フォー・フィアーズの「Everybody Wants To Rule The World」、ニルヴァーナの「Smells Like Teen Spirit」など全12曲を新たな解釈と深みでカバーして見せたこの作品は、パティが創作表現者としてだけでなく、解釈表現者としても一流であることを証明した。と同時に、このカバーアルバムの選曲には、長年政治や人権問題に関して常に自分の意見を明確にしてきたパティの意思が伺える。彼女の「ピープル・ハヴ・ザ・パワー」は2000年の大統領選では緑の党の社会活動家ラルフ・ネイダーを、2004年には民主党候補のジョン・ケリーを支持するテーマソングとして、彼女自身のみならずブルース・スプリングスティーンらに繰り返し歌われた、リベラル派のアンセムでもあった。

 2010年、パティのニューヨークでのロバート・メイプルソープとの日々を綴ったメモワール『ジャスト・キッズ』が全米図書賞を受賞。またジャン・リュック・ゴダールの映画『ゴダール・ソシアリスム(Film Socialisme)』にカメオ出演、2011年には音楽界のノーベル賞と言われるスウェーデンのポーラー音楽賞の受賞と夫フレッドの死後本格的に始めた写真家活動の初の個展を開催するなど、音楽以外の領域で充実した時期を迎えた。この頃、現在のところの最新アルバムである『バンガ』(2012)をリリース。1990年に亡くなったリチャード・ソールに代わるベースのトニー・シャナハン以外は『牝馬/ホーセス』以来変わらぬバンドメンバーに加えて、最後の共演となった盟友トム・ヴァーレインや親友のジョニー・デップ、息子のジャクソンと娘のジェシー・パリスら親密なメンバーでレコーディングされたこの作品は、東日本大震災の犠牲者を追悼する「Fuji-san」や故エイミー・ワインハウスを偲ぶ「This Is The Girl」など、パティらしい視点から混沌としながら美しい世界に対する眼差しを感じる楽曲が抑えたサウンドと詩的な表現力で紡がれ、シーンから高い評価を受けた。

 2020年代に入っても活発にライブ・ツアーを出るなど精力的に音楽活動を続けるパティは、ワシントン大学セント・ルイス校から国際人道貢献賞受賞、ニューヨークのコロンビア大学から文学名誉博士号の授与、そして今年2023年にはソングライターの殿堂にノミネートされるなど、今も世界各方面からの称賛を集める存在であり続けている。しかしそんなことよりもパティはパンク・ロックのパイオニアとしてシーンに登場した時のように、自分の信念と思いを音楽や芸術で表現することに今後もそのエネルギーを注ぎ続けるのだろう。

 

ディスコグラフィ(カッコ内は原盤レーベル、- 以降は英米のチャート実績)

1.主なアルバム

1975年  『牝馬/ホーセス(Horses)』 (Arista) – US 47位(UKゴールド)

1976年  『ストリート・パンクの女王/ラジオ・エチオピア(Radio Ethiopia)』(Arista) – US 122位

1978年  『イースター(Easter)』(Arista) – US 20位、UK 16位(シルバー)

1979年  『ウェイヴ(Wave)』(Arista) – US 18位、UK 41位

1988年  『ドリーム・オヴ・ライフ(Dream Of Life)』(Arista) - US 65位、UK 70位

1996年  『ゴーン・アゲイン(Gone Again)』(Arista) – US 55位、UK 44位

1997年  『ピース・アンド・ノイズ(Peace And Noise)』(Arista) – US 152位

2000年  『ガン・ホー(Gung Ho)』(Arista) – US 178位

2002年  『ランド(1975-2002)〜グレイテスト・ヒッツ(Land)』(2枚組ベスト盤+未発表曲B面集)(Arista)– UK 93位

2004年  『トランピン(Trampin’)』(Columbia) – US 123位、UK 70位

2007年  『Twelve』 (Columbia) – US 60位、UK 63位

2012年  『バンガ(Banga)』 (Columbia) – US 57位、UK 47位

 

2,主なシングル(USR=USロック・チャート、USMR=USモダン・ロック・チャート)

1978年    「ビコーズ・ザ・ナイト(Because The Night)」- US 13位、UK 5位(シルバー)

                 「Privilege (Set Me Free)」- UK 72位

1979年    「フレデリック(Frederick)」- US 90位、UK 63位

1988年    「ピープル・ハヴ・ザ・パワー(People Have The Power)」- USR 19位、UK 97位

                 「Up There Down There」- USMR 6位

1996年    「Summer Cannibals」- UK 82位

*  USでは、アルバム・シングル共にゴールド=50万枚、プラチナ=100万枚の売上によりRIAA(アメリカレコード協会)が認定。UKではアルバムはシルバー=6万枚、ゴールド=10万枚、シングルはシルバー=20万枚の売上によりBPI(英国レコード産業協会)が認定。いずれも2023年2月現在。