リサ・スタンスフィールド
UKの女性ボーカリストの中にあって、リサ・スタンスフィールドは、過去15年近くにわたって頂点の座を維持してきた。人々が「ソウル・ディーヴァ」と呼びたがるのもうなづける。確かに、息を呑む声と卓越した音域は、実にソウルフルだ。だが、「ディーヴァ」という呼び名は、少し違う気がする。「世界のプリマドンナ」的呼称は、飾り気のない誠実さとケレン味のなさを身上とする彼女には、似つかわしくない気がするのだ。ランカシャーはロッチデール出身の少女は、これまでに全世界で1300万枚のアルバム・セールスを記録してきた。



リサの歌は、我々にとって人生のサウンドトラックとなった。また、BRITSやIvor Novello、グラミー賞ノミネーションなど、数々の音楽賞を席巻してきた。だが、彼女の音楽がいかに我々の心深くに浸透しているかを実感するのは、初のグレイテスト・ヒット・アルバム ”Biography” を聴く時だろう。



リサは、ソウル・ミュージックを聴いて育った。「ごく小さい頃、ママがシュープリームズを聴きながら家事してたのを覚えてるわ。子供の頃に聴いた音楽って、ずっと残るものよ」と彼女は語る。両親がパーティを開くと、幼いリサは階段に腰かけて、大人たちがかけるソウルのレコードに聴き入ったと言う。



「降りて来ちゃだめってクギさされてたの」と彼女は回想する。「でも、成長期には、バリー・ホワイトが最高にセクシーだと思ったわ。どの家のパーティに行っても、シフォンのドレスにチキン料理にバリー・ホワイト、それが定番だった。今でも心に刷り込まれてるわ。」



こうした経験から、リサは自ら歌いたいと熱望するようになった。そして、彼女のボーカルの才能は、早い段階から明らかとなる。マンチェスター・イヴニング・ニューズ主催のタレント・コンテストで、リサは若冠14歳にして優勝をさらったのだ。



少女ながら、その声にふさわしいパーソナリティを兼ね備えていたリサは、ITVテレビの子供向け番組Razzmatazzのプレゼンターに抜擢された。のちに演技の才能にも磨きをかけることとなるものの、彼女が第一に情熱を傾ける対象は、常に音楽だった。1983年、リサは元クラスメイトのアンディ・モリス、イアン・デヴェイニーと共に、ポップ・ソウル・トリオ、“ブルー・ゾーン (Blue Zone)”を結成する。現在に至るまで、イアンは共作者、プロデューサー、そして夫として彼女を支えている。まさにポップ界屈指の息の長いパートナーだ。



彼らが出した一連のシングルと、1986年にリリースした唯一のアルバム “Big Thing” は、チャート外で反響を呼び、タイトル・トラックはクラブで人気を博した。「ポップにやろうとしてたの。人々がそれを望んでると思ってたから」とリサ。「でも、結局気づいたの。ソウルフルにやればやるほど、みんなが喜んでくれることに。よかったわ。それこそが、私たちが自然にできる音楽だったから。」



リサにとっての大きな転機は、アンディとイアン(共にブラス・プレイヤー)が、コールドカット(Coldcut) の名で知られるダンス・デュオ、マット・ブラックとジョナサン・ムーアの作品 “Stop This Crazy Thing” に参加した時に訪れた。彼らはシンガーを探していたわけではなかったが、リサは興味半分でセッションについて行った。そして、即座に、次作 “People Hold On” でのゲスト・ボーカルを依頼されたのだ。



この曲はトップ20ヒットとなり、その成功の余勢を駆って、リサはソロ・シンガーとしてやってみないかと説得された。アンディとイアンは、ライター/プロデューサーとしてサポートすることになった。



アリスタからリリースされたファースト・ソロ・シングル “This Is The Right Time” は3人の共作で、プロデュースはコールドカットのチームが特別に手がけた。この曲は、1989年9月にトップ20入りを果たし、そのすぐ後に、リサにとって初のUKナンバーワン・ヒットとなる “All Around the World” が続いた。この曲は、アメリカでも成功をもたらした。ポップ・チャートはもとより、R&Bチャートでも頂点に輝いたのだ。これは、白人アーティストとしては史上二人目の快挙だった。



ソロ・アーティストとしての目ざましい初年度の締めくくりに、彼女はVariety Club of Great Britainの1989年度最優秀レコーディング・アーティスト賞、BRIT最優秀新人賞を受賞し、”All Around The World” はIvor Novello最優秀コンテンポラリー・ソング賞に輝いた。同曲はロングヒットを続け、翌年にも再度Ivor Novello賞を受賞している。



その頃には、全曲を元ブルー・ゾーンのメンバーで共作したリサのソロ・デビュー・アルバム “Affection” がUKでチャート第2位、アメリカで第9位にランクインしていた。同アルバムは、最終的に全世界で450万枚以上のセールスを記録した。”Affection” からは、さらにシングル ”Live Together”、 “What Did I Do To You?”、アメリカでは “You Can’t Deny It” がカットされ、5曲ものヒットが生まれた。



こうした成功の結果、リサは引っぱりだこのパフォーマーとなった。プリンス “Trust” のガラをはじめ、チャートを席巻したバンド・エイド2による “Do They Know It’s Christmas?” のリメイクにも参加、スターが勢揃いしたレッド・ホット+ブルーのチャリティ・アルバムでは、コール・ポーターの “Down In The Depths” を歌った。今回のグレイテスト・ヒッツは、こうした楽曲を収めた初のプロパー・アルバムということになる。



音楽的には、こうした経験は彼女の成熟を促した。その年齢にしては驚異的なことである。リサには、多彩なオーディエンスに訴えかける天性の能力が備わっているようだった。ファッショナブルな帽子にキュートなカール、彼女の外見的なイメージは、おそらくポップそのものだっただろう。だが、その声はソウルそのものだった。ワイドで確実な音楽性は、気難しいことで有名なローリング・ストーン誌の批評家投票による最優秀女性新人シンガーに選ばれたことでも追認された。



当初から、リサは自分自身であり続けようと心に決めていた。1991年に2度目のBRIT賞を受賞した時には、批判を恐れずに湾岸戦争への批判を公言した。それは単なるジェスチャーではなかった。クルド人難民のチャリティに参加することで、彼女はそれを証明した。また、エイズやアムネスティ・インターナショナルのチャリティにも参加している。



セカンド・アルバム “Real Love” は、1991年末にリリースされた。イアン・デヴェイニー、アンディ・モリスと再びタッグを組んで書いた同アルバムは、”Change”(シカゴ・ハウス界のパイオニア、フランクキー・ナックルズがリミックス)、”All Woman”、”Time To Make You Mine”、”Set Your Loving Free” といったヒット曲を生み出した。一連のヒットにより、彼女は3年連続3度目のBRIT賞を受賞した。



多忙なスケジュールは、とどまることを知らなかった。1992年、リサはウェンブリーで開催されたクイーンの故フレディ・マーキュリー追悼コンサート “Concert For Life” に参加した。”I Want To Break Free” を掃除機にヘアカーラーという出で立ちで歌い、また “Those Were The Days of Our Lives” をジョージ・マイケルとデュエットで歌った。後者は、同コンサートのライヴEP “Five Live” に収められ、UKチャートで3週連続1位を記録した。続く1993年には、映画『ボディガード』への楽曲提供を依頼され、“Someday (I’m Coming Back)” が生まれた。この曲はトップ10ヒットとなったばかりでなく、サントラ盤として史上最高のセールスを記録した。この2曲も、今回の “Biography” で初めてリサのプロパー・アルバムに収められることとなった。



同年、サード・アルバム “So Natural” がリリースされた。レコーディングは、初めてロッチデールを離れ、ダブリン(リサの現在の居住地)で行われた。同アルバムからは、タイトル・トラックをはじめ、”Little Bit Of Heaven”、”All The Right Places” といったヒット・シングルが生まれた。後者は、ジェームズ・ボンドで有名な作曲家、ジョン・バリーとの共作である。



待望の休暇を取った後の1997年、リサはアルバム第4作 “Lisa Stansfield” を携えて戻って来た。このアルバムにも、イアンとの共作による佳曲が収められた。その中のひとつ、”The Real Thing” は、再びトップ10・ヒットとなった。同アルバムではまた、幼い頃から憧れていたバリー・ホワイトのソウル・クラシック、“Never, Never Gonna Give You Up” や、フィリス・ハイマンの “You Know How To Love Me” などにも、自信を持って取り組んでいる。



この後、さらに長期の休暇を取ったリサは、2001年に5枚目のアルバム “Face Up” と共に帰ってきた。同アルバムには、記念碑的シングル “Let’s Just Call It Love” が収められている。アルバム制作の合間も、彼女は怠けていたわけではない。1999年、UKのロマンチック・コメディ映画 “Swing”(監督・脚本ニック・ミード、共演ヒューゴ・スピア、トム・ベル)で、リサは演技者としての第一歩を踏み出した。さらに2002年には、激賞を博した舞台作品 “Vagina Monologues”(共演アニタ・ドブソン、セシリア・ノーブル)でウェストエンド・デビューを果たした。女優としてのプロジェクトは、2003年にも組まれている。



とは言えリサは、あくまで自分は第一にシンガーであると考えている。「演技はもっとやってみたいし、いくつか脚本に目を通したりもしてるわ。でも、何と言っても歌が一番。今まで以上にそう感じるの。」



2002年秋、ロンドンはソーホーにあるロニー・スコットの有名ジャズ・クラブで、リサは1週間のステージを務め、そのことを証明した。「大変だったけど、あんなふうに一体感のあるパフォーマンスをもっとやってみたいわ」と彼女。「オーディエンスを間近に感じられて、とてもリアルな体験だった。」



アルバム “Biography” のリリースに合わせて、4月にはロイヤル・アルバート・ホールでの豪華なショーを含むUKツアーが組まれている。「この世界でやっていくってことは、自分のやりたいことをやって、自分の本能に従うってことだと思うの」と彼女。「それを、これまで14年間続けてこられた私は、とても幸せ者だと思うわ。」



これからもずっと、そうあり続けてほしいものだ。初のグレイテスト・ヒット・アルバムも、リサ・スタンスフィールドにとっては、第一章を総括する通過点に過ぎない、そんな気がするのだ。