ララ・ファビアン

 ベルギー生まれ。ベルギー人の父とイタリア人の母の間に生まれたララは、音楽に造詣の深い父親の影響で、幼い頃から音楽に親しんでいた。「歌、ダンス、ピアノ、音楽に関係する事だったら、何でもやったわ」と話すララ。中でも歌を歌う事が大好きだった彼女は、8歳の時にブリュッセルの音楽学校に通い始め、歌手になる為のレッスンをスタート。14歳の頃から曲作りにも真剣に取り組むようになると同時に、機会がある度に、様々なコンテストでパフォーマンスを行った。

 18歳の時に、保守的なヨーロッパの音楽業界に愛想を尽かして、単身カナダのモントリオールへ。「ヨーロッパでは、女性をただの歌手としてしか見てくれない。私はシンガー・ソングライターになりたかった。絶対に妥協はしたくなかったの。だから、もっと自分らしく活動が出来るカナダに移ったのよ」と、その当時を振り返ってララは語る。

 だが、カナダでの生活は決して楽なものではなかった。ヨーロッパからやって来た、18歳の少女の話を真剣に受け止める人がいなかったのだ。結局、レコード契約を得ることが出来なかったララは、ブリュッセル時代の友人Rick Allisonと二人、カナダで自身のレーベルを立ち上げる。

 1991年、カナダでデビュー・アルバムをリリース。ケベック地方をくまなく回ってショーを行い、男性プロデューサーやソングライターによって創り上げられただけの女性シンガーではない、という実力を見せつけた。このデビュー・アルバムはカナダでゴールド(10万枚)に達する成功を収める結果となる。 1994年には、セカンド・アルバムをリリース。フランス語圏の国々で、80万枚を超えるセールスを記録した。

 彼女を一気にスーパースターの座に押し上げたのは、1997年にリリースされたサード・アルバム。フランスのみで200万枚のセールスを記録。ファースト・シングル “La Difference”は、ヨーロッパ中で大ヒットとなる。1998年にはヨーロッパでのツアーを収めたライブ・アルバムをリリースし、フランスのアルバム・チャートで初登場1位という快挙を収めた。

 ヨーロッパで爆発的な人気が出てきたララのパフォーマンスを、米ソニー・ミュージック社長のトミー・モトーラが見たのは、98年のパリだった。「あまりの素晴らしさに言葉を失った。絶対に世界中でブレイクさせてみせる、と誓ってアメリカに戻り、即契約の手続きを始めたんだ」と、トミー・モトーラは当時について語っている。彼女のシンガー・ソングライターとしての才能を最大限に発揮出来るよう、Walter Affanasieff, Pat Leonard (Madonna), Sam Watters (元Color Me Badd)などの第一線で活躍する敏腕プロデューサーを招き入れレコーディングした、ララ・ファビアン初の英語アルバム「ララ・ファビアン」が発売されたのは2000年5月。カナダ、ヨーロッパを中心に、アメリカでも人気を博し、彼女の魅力が世界中に知られるところとなった。ファースト・シングル “I Will Love Again”は、日本でもラジオ・ヒットとなる。

 2001年夏公開になったスティーブン・スピルバーグの映画「A.I.」のサウンド・トラックにも楽曲 “For Always”を提供したララ。「スター・ウォーズ」や「E.T.」などで有名な映画音楽の巨匠ジョン・ウィリアムズのたっての希望で、ララ・ファビアンが歌う事になったこの曲は、ジョン・ウィリアムズが初めて自分のサントラにヴォーカル・トラックを入れたという事で、話題になった。

 来年春には2枚目の英語アルバムをリリース予定のララ・ファビアン。これからも、世界を舞台に活躍の場を広げる彼女から目が離せない。