ジョージ・セル

ジョージ・セル (1897.6.7 ブダペスト– 1970.7.30 クリーヴランド)

  1897 年、ハンガリーのブダペストにジェルジ・エンドレ・セッルGyörgy Endre Széllとして生まれる。幼少期をウィーンで過ごし、名教師リヒャルト・ロベルトにピアノを、マンディチェフスキに作曲と音楽理論を学ぶ。幼い頃から神童ぶりを発揮し、11 歳の時、トーンキュンストラー管と自作を演奏してピアニストとしてデビュー。ライプツィヒでレーガーに学び、1912年、ユニヴァーサル・エディションと作曲家として10年間の専属契約を結ぶ。1914年、ベルリンのブリュートナー管を指揮して指揮者としてのデビューを果たす。1915年、ベルリン王立歌劇場の副指揮者となり、リヒャルト・シュトラウスの薫陶を受け、指揮者としての道を歩むことにする。ストラスブール市立歌劇場の第1指揮者(1917~18年)を皮切りに、ダルムシュタット(1921~24年)、デュッセルドルフ(1922~24年)などドイツ各地の歌劇場の指揮者を歴任後、1924年からはエーリヒ・クライバーのもとでベルリン国立歌劇場の第1指揮者およびベルリン放送管弦楽団の指揮者に就任。1927年からベルリン音楽大学で教鞭をとる。1930 年には初めて渡米し、各地で客演して名声を高めた。1929~37年、プラハのドイツ歌劇場音楽監督、1937~39年、グラスゴーのスコティッシュ管弦楽団、ハーグのレジデンティ管の指揮者となる。1939 年、オーストラリアからの帰途、滞米中に第2 次世界大戦が始まったため、そのままアメリカにとどまることになる。トスカニーニの助力によりNBC交響楽団の客演指揮者に迎えられ、アメリカ各地のオーケストラに客演、1942 年からはメトロポリタン歌劇場の指揮者として登場するなど、その名声は急速に高まっていった。
 1946 年、ラインスドルフの後任としてクリーヴランド管弦楽団の音楽監督に就任。アムステルダム・コンセルトヘボウ管の共同指揮者(1958~61年)、ニューヨーク・フィルのミュージック・アドヴァイザー(1969~70年)をつとめ、ウィーン・フィルやベルリン・フィル、ザルツブルク音楽祭、オランダ音楽祭などに数多く客演したものの、セルの演奏活動の中心はクリーヴランドにあった。1970年に亡くなるまで、セルは驚くほど厳しい練習によって磨きぬかれたアンサンブルを作り、同団を20世紀オーケストラ芸術の規範とも言うべき世界最高の存在に仕上げた。1965年にはロシアとヨーロッパに、1967年にはザルツブルク、エディンバラ、ザルツブルク音楽祭にクリーヴランド管と客演し、その名声を高めた。
 セルは、1970年5月、大阪万国博の際にクリーヴランド管弦楽団を率いて初来日し深い感銘を与えたが、帰国後急逝し、多くのファンを悲しませた。セルの音楽の特徴は、磨きぬかれた透明度の高い響きと、清潔を極めた端正な表現、一分の隙もない造形の均衡にある。そして、そこには常に冷静に音楽の外側に立っているように見えながら、あらゆる作品の純粋な音楽美を見事に掘り出す、指揮者として理想的な偉大な音楽性が見出されるのである。特にモーツァルト、ベートーヴェン、ブラームスなどの演奏には、長年のヨーロッパにおける経験を生かした格調高い解釈で定評があった。
 セル自身の回想によると、彼の初録音は師シュトラウス指揮で予定されていたセッションで、到着が遅れた師の代わりに録音した「ドン・ファン」(4面中最初の2面)だという(1916年のアコースティック録音)。電気録音技術の到来以降も積極的に録音にかかわり、戦前はウィーン・フィル(フーベルマンとのベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲)、チェコ・フィル(ドヴォルザーク:新世界交響曲、カザルスとのチェロ協奏曲)、ロンドン・フィル(シュナーベルとのブラームス:ピアノ協奏曲第1番、モイセイヴィッチとのベートーヴェン:皇帝)など、特に巨匠級のソリストと共演した協奏曲が名演として知られている(英EMI)。戦後はクリーヴランド管就任シーズンの終わりの1947年4月からコロンビア・レコードへの録音を開始し、ステレオ時代にかけて膨大なレパートリーを築き上げた(一時期エピック・レーベルからも発売)。コロンビアにはニューヨーク・フィルともモノラル録音を残し、さらにヨーロッパでは英デッカ、蘭フィリップス、英EMIにも数多くの名盤を残している。最晩年の1968~70年にかけては米エンジェルにもLP9枚分の名演を録音している。