FIVE
Sean Conlon[ショーン・コンロン(20)]、Scott Robinson[スコット・ロビンソン(21)]、Ritchie Neville[リッチー・ネヴィル(21)]、Richard “Abs” Breen[リチャード・“アブス”・ブリーン(21)]、Jason “J” Brown[ジェイソン・“J”・ブラウン(25)]の5人はお茶の間に欠かせない存在となり、多くの女性(そして少数の男性)のファンタジーとなった。

Fiveは、その2枚のアルバム合わせて世界で6百万枚売っている。1998年の『Five』と1999年の『インヴィンシブル』だ。デビューシングル「スラム・ダンク・ダ・ファンク」が発売直後すぐにUKチャートのトップ10入りを果たし、続く7枚のシングルが全てトップ5に入った。(うち1999年の「キープ・オン・ムーヴィン」、2000年の「ウィ・ウィル・ロック・ユー」は1位)。MTVセレクト・アウォード(MTVヨーロッパ、1998)やベスト・ポップ・アクト(ブリットアウォーズ、2000)等、アウォードの受賞も数多い。

1997年以来、彼らは6つのスマッシュ・ヒッツ・アウォーズを獲得した。(2000年のベスト・ブリティッシュバンドを含む)最初の12ヶ月でFiveがUKの雑誌の表紙を飾った回数は23回!ヨーロッパ各地でもアルバムはトップ10入り、アメリカでのデビューシングル「When The Lights Go Out」はビルボードの100トップ10チャートに12週間留まり、その間に50万枚売れた。ベイシティ・ローラーズ以来最も成功したイギリスの男性アーティストの仲間入りである。

Fiveは、ボブとクリス・ハーバートによって1997年に組織された。それまで、アブスはハックニーの自宅でターンテーブルでジャングルのミックスをしていて、Jはウォリンドンで「プロフェッツ・オブ・ダ・ファンク」というグループに参加していた。ショーンには13歳の時ヤマハ・ヤング・コンポーザーというオーディションで賞を取っている程の作曲能力があり、リッチーはロックバンド「アナル・ベアード」にいた。スコットは3ピース・バンドをやりながらダンススクールでレッスンを受けていた。

Surrey州カンバーリーにある「Five」ハウスに集まった5人はすぐにポップバンド結成のアイデアを気に入ったが、何分個性の強いこの5人のこと、奔放で突発的な行動がたちまち世間を驚かすことになる。ボブ・ハーバートは後に「ラスト・ミニッツ・ボーイズ(予測のつかない行動を取る)」と彼らを呼ぶようになったほどだ。

しかしこの性格にもかかわらず、1997年にRCAと6枚のアルバムを作る契約を結ぶことになる。あのハウスで過ごした期間に、彼らはそのスタイルに磨きをかけていったのだ。

Fiveが個性の強い者の集まりであることは、その音楽性の多様さに現れている。クイーンとデュエット出来るポップバンド等他にいるだろうか?(65万枚売れた「ウィ・ウィル・ロック・ユー」のカヴァー)。ヒップ・ホップからガラージ、ディスコまで。それら全てを内包しつつポップに仕上げてしまう。リッチー曰く「アブスはガラージとジャングル担当で、Jはオールドスクール・ヒップホップ。ショーンはソウルで、スコットはフィル・コリンズやなんかの80s、僕はロック。」

「ポップ・ミュージックのいい所は、それら全てを取り入れてもやはりポップという形に収まるということ。僕たちがやればそれはいつだってFiveらしい音になる。」

来るべき3枚目のアルバムには彼らのトレードマークであるエレクトロニック・サウンドが随所に散りばめられている。ガラージ・ダンス的なファーストシングル「レッツダンス」、バラッドの「クローサー・トゥー・ミー」、ロック的な「Lay All Your Loving On Me」、他には「C'Mon C'Mon」「Let's Get It On」等。

Fiveは、ソングライティング能力が無いとかライヴでは上手く歌えないないとか言う、ポップバンドに対するよくある批判・中傷にもひるまない。エセックス州の変わり者、もうすぐ父親になるスコットは言う「歌唱力を示すために5分のアカペラをやろうと思ったことなんてないな。もし疑わしいなら、ライヴを見に来ればよく分かるはずだよ。」

ファーストアルバムの後、彼らはすぐに効果的な作曲ポリシーを見出した。「アブス、J、そして僕はアイルランドに行って(スパイスガールズ、E17、Gabrielleを手掛けた)ビフ・スタンナードやジュールス・ギャラガーと一緒に曲を書く。そしてスコットとリッチーはノルウェイでスターゲイトと一緒に作業する。」とリーズ生まれのショーンは説明する。その後5人が集まって共同作業をするのだそうだ。

Fiveの美点はその正直さである。彼らはよくある綺麗に磨かれたポップバンドとは違う。そのことでよく誤解され、気分屋の不良少年達だという受け取りかたもされてきた。「みんな僕らのアティチュードのことを問題にするけど、ただあるがままでいようとしてるだけなんだ。お尻にキッスしてくれるような典型的ボーイバンドと一緒にして欲しくないな。」とアブス。彼らをどう見るかは個人の勝手だが、その正直さだけは皆が認めるべきである。



Fiveのライヴショウもまた、特異なポリシーに基づいている。ティーンエイジャー、ヤングアダルト、ママやパパ、ゲイ、狂信的な少女達に至るまで、彼らのライヴは常にあらゆる客層を喜ばせるためのものである。彼らは、早いうちに他のバンドのサポートアクトはしないことに決めてしまった。(イン・シンクのUSツアー・サポートのオファーさえ断った。)結果的に、ソウルドアウトされたアリーナショウでは国際的な賞賛を得た。Rock In Rio フェスティヴァルにオアシスと共に出演し、27万人の観衆を前にこの巨大なコンサートを経験した。

彼らのアリーナ・ショウは2000年のヴィデオ「Five Live」に記録されている。マンチェスター・アリーナで1万2千人を集めたショウだ。それまでにUK、ヨーロッパ、オーストラリア、南アメリカの各地をツアーし、27カ国でプレイ、2000年11/12月、UKの19公演の最後を締めくくったのはソウルド・アウトされたウェンブリー・アリーナ。正直で働き者で、常に感謝の念を忘れないこの5人はニューアルバムを既に完成させた。