ダレン・ヘイズ

 1972年、オーストラリアのブリスベンで生まれる。音楽好きの姉に影響されて、マイケル・ジャクソン、フリートウッド・マック、ケイト・ブッシュ、ピーター・ガブリエルなどの音楽を聴いて育った。大学に進学し、学校の先生になろうと思っていた彼だが、後にバンド・パートナーとなるダニエル・ジョーンズが1994年にある雑誌に出した、ボーカリストを求む広告に応募したことで、彼の人生は一転した。兄弟とバンド活動をしていたダニエルと会ったダレンはすぐに彼と意気投合し、程なくして二人でバンドを脱退、新しくバンド活動を始めた。多くのレコード会社にデモテープを送り続け、1995年にオーストラリアのロードショー・ミュージックと契約。すぐにレコーディングに取りかかった。レコーディングを終えた後、すぐにリリースされたデビューアルバムのファーストシングル “I Want You”は予想を上回る大ヒット。 続くセカンド・シングル “To The Moon & Back”で、その年のオーストラリアでのシングル年間売り上げ1位を獲得し、バンドとしての地位を不動のものにした。

 世界デビューが決まったのは1996年。オーストラリアで行われた音楽コンベンションに出席していたテキサスのラジオDJが “I Want You”を気に入り、CDを持ち帰って地元のラジオ局でかけたところ、問い合わせが殺到。このテキサスでの盛り上がりが全米各地に飛び火し始めた頃、ソニーがこのバンドといち早くワールドワイド契約。オーストラリアから世界へと、舞台が広がっていった。

 1997年4月、世界デビュー。アメリカでの反応は素晴らしくデビュー・シングルにして、最高4位まで昇り詰めた。その後も、アメリカ、ヨーロッパ、日本、アジアと、サヴェージ・ガーデンの人気はどんどん拡大していく。

 

 1997年秋に行われたオーストラリア版グラミー賞、ARIA AWARDSでは、記録タイの10部門で受賞し、名実ともにオーストラリアNo.1のバンドになったのだった。サード・シングル “Truly Madly Deeply”は、1998年1月に見事全米No.1を記録。全米シングル・チャート、エアプレイ・チャートの上位に居続けるスマッシュ・ヒットとなった。

 1998年2月にオーストラリアからスタートさせたワールドツアーの一環として、4月に初来日公演。大阪、名古屋、東京で全4公演を行い、大成功を収めた。その後アジア諸国、インド、ヨーロッパでコンサートを行い、7月には2ヶ月間に渡る全米ツアーをスタートさせた。アメリカでは約50都市をくまなく回り、各地で大きな反響を呼んだ。アルバムのセールスは、アメリカの600万枚を始め、ヨーロッパで200万枚、カナダで100万枚アジアで70万枚と、全世界で1100万枚の売り上げを記録。

 1999年にリリースされたセカンド・アルバム「アファメーション」からのファースト・シングル “I Knew I Loved You”は、全米シングル・チャートでNo. 1を獲得。いわゆる一発屋のポップ・バンドではないことを証明した。セカンド・アルバムは全米だけで300万枚、全世界でのセールスは700万枚を超え、いまだに売れ続けている。日本でもプラチナ(20万枚)を超え、日本を皮切りにスタートさせた2000年の世界ツアーも、各地で大成功を収めた。

世界ツアーが終わった後、1年ほどバンド活動を休止していたバンドだが、ダレンもダニエルもそれぞれのアーティスト活動を行っていた。ダニエルは、オーストラリアで自身のレーベルを立ち上げ、新人アーティストのプロデュースを始め、一方ダレンはダニエル以外のアーティストと曲を書き始めた。「サヴェージ・ガーデンの枠を超えて、お互いに活躍したかったんだ。」とダレンは言う。「もともとダニエルは、人前に出ることが苦手で、ずっとプロデューサーとして仕事をしたがっていたんだ。だから、今の状態は二人にとって良い事だと思う。“仲が悪くなって解散したの?”って聞かれることが多いけど、今でもとても仲が良いよ。お互いが新しい事に挑戦するのは良いことだし、ダニエルはソロ・アーティストとしてデビューする、僕の一番の応援者さ」

 2002年3月にリリース予定のデビュー・アルバムでは、数名のソングライターと共作しているという(ウォルター・アファナシエフ、リック・ノールズなど)。アーティストとして一回りも二回りも大きくなったダレン・ヘイズの力作となっている。