ブラック・レベル・モーターサイクル・クラブ
Official bioより



ブラック・レベル・モーターサイクル・クラブとして知られる3人のメンバー、ピーター・ヘイズ、ロバート・レヴォン・ビーン、ニック・ジャゴーにとって、この言葉は、ほろ苦い詩文としてたやすく用いることができたであろう。だが実際は、ニュー・アルバムの“スローガン”的なものとなった。 “ハウル”は、バンドが己を助けるために、己の魂の内側に深く手を伸ばしているサウンドだ。そしてロックという食事に見切りをつけ、フォークやカントリー、ブルーズ、ゴスペル、ポップといったご馳走のなかで救いと安らぎを見出し、バンド自身とその無限の可能性に、とうとう率直に向き合ったサウンドである。

 この13曲は、これまでリリースしてきたアルバムとは――デザインのせいもあり、プロセスの違いのせいもあるが――随分かけ離れている。なんと形容したらよいのか、おそらくみんな懸命に模索するだろう。ビート詩人の詩集と、バンド自身のハゲタカ魂に触発され、“ハウル” と名づけたこの新作を、最も的確に表現するには、シンプルに、彼らの作品の境界線、と言えば良い。それは、ストーンズが“ベガーズ・バンケット”で、クラッシュが“ロンドン・コーリング”で、描いてみせた線と同じものだ。つまりすべての合計でありターニング・ポイントであり、そして過去を認め未来を見つめるラインである。

 しばらく前、まるでバンドが崩壊直前にいたかのとき、この線は姿を現した。

 “ハウル”を製作するための最初のセッションは、フィラデルフィアの外にある地下スタジオで、2004年の6月に始まった。彼らと一緒にいたのは、古い友人でマッド・アクションのフロントマン、ポール・コブとライアンだ。「そこは二人の両親の家だよ」とビーンは語る。「でも音は最高だった。古い1インチテープのレコーダーを使ったから、トリックなんかないしね。いつも起きると彼らのママがスパゲッティを作ってくれてさ、おれたちはそれを食べた後、地下室へ降りて録音していたんだ」

 ためしに始めたマテリアル(様々な伝統的音楽を用いた、荒削りで生の感情に溢れた楽曲)は、このバンドの別の一面を浮き彫りにした。ヘイズは言う。「そうはいっても、おれたちのなかにはずっと存在していた一面だよ。ただこれまでのアルバムには入れてこなかっただけで、この何年間、ずっと書き溜めてきた楽曲だ。前のアルバムに収録しようかと思ったものもあるけど、ロック・アルバムにありがちな、穴埋めやもの珍しいだけの楽曲にはしたくなかったんだ。それにはあまりに大切なトラックだと感じたからね」



 アコースティック・ギターを使って書いてきた楽曲が殆どではあったが、(「階段の吹き抜けや裏口なんかでね」とヘイズ)、彼らはただの“アンプラグド・アルバム”は望んでいなかったのだという。「どんなふうにレコーディングに取り組むか、これらの楽曲をどんな形に持ってゆくか、そんなことを考えながらいろんな実験を重ねていたよ」とビーンは言う。「失礼ながら言わせて貰えば、ブルース・スプリングスティーンのネブラスカ・スタイルのアコースティック・アルバムみたいにはしたくなかった。もっといろいろ出来ると思った。ただ最初にどうすればいいのかが、よくわからなかっただけで」

 フィラデルフィアでのこの努力は、一握りの洗練されたトラックを生み出しはしたが(アルバムのオープナー“シャッフル・ユア・フィート”や、物憂げな“シンパセティック・ヌース”、心を捕らえるマイナーキーの“ザ・ライン”など)、アルバムの完成にはまだほど遠かった。

 8月がくると、BRMCは楽曲製作に一息いれ、ヨーロッパのフェスティヴァルへ出かけた。ここ数年のせわしいツアー、タフな労働、個人的な放蕩などのおかげで、そのときバンド内では徐々に緊張が高まっていたらしい。「おれたちはお互い非難し合っていたんだ。まったく馬鹿げていたし、あんなの誰も見たくなかっただろう。ドラッグもやりすぎで、いろんなものが、おれたちをダメにしていた。もう、“ノー”って拒否することもできなかったくらいだよ。空っぽのまま走り続けていたんだ」ツアーが終わりに近づいたころ、スコットランドのエディンバラのステージで、まさに文字通り、グループはばらばらになってしまった。そして混乱が収まった後、ジャゴーがバンドから脱退してしまう。ヘイズとビーンは、コンサートをいくつかキャンセルしながら、残りの日程をずるずるとこなしていた。スペインでは、オーディエンスのなかからファンがドラム・キットへ引っ張られるという、シュールなギグも行ったという。

 そしてLAへ戻ってきたころには、BRMCは完全に壊れていた。ジャゴーがいなくなったことで、長いことバンドを支えてきた繊細な持ち味は崩壊し、未来はまったく見えなくなっていた。「自分たちがやってきたことの意味がわからなくなっていた」とビーン。「わからないけど、今振り返ってみれば、おれたちはゼロからやり直すために、すべて焼き尽くさなくちゃならなかったのかも。もう一度、意味を持たせるためにね。もう辛い経験はしたくないよ」

 だがとにかく前進して行こうと決めたビーンとヘイズは、11月になると、長年の友人リック・パーカーのLAにあるスタジオ、ザ・サンドボックスに潜伏を開始した。ヴァージンから離れて随分経っていた彼らには、レーベルもなく、そしてドラマーもいなかった。セカンド・アルバムのタイトル“テイク・ゼム・オン・ユア・オウン”(自分ひとりで引き受けろ)が、まるでこうなることを予言していたかのように思えた。

 ヘイズとビーンはスタジオの代金を自分たちのポケットから支払って、アルバム製作を再開し、必ず最後まで作り上げるんだと決意を固めていた。それは自分自身のためでもあり、何かを証明するためでもあった。そして、透き通ったポップの傑作の、新たなヴァージョン“ハウル”と、ダークなカントリー “デヴィルズ・ウェイティン”の製作過程で、奥深い創造の自由と、絶望から生まれ出たものが、突然曲のなかに居場所を見つけたのだ。「どんなに元気付けられたか、説明できないよ」とビーン。「信じられない気持ちだった。おかげで生き延びることができたよ」



 その結果に勇気付けられた2人は、この勢いがどこまで続くのか、見極めることに決めた。しばらくの間は、サード・アルバムのテーマを大まかにまとめていたが(製作中のタイトルは“The Americana LP”)最終的には、楽曲そのものに音の方向性を委ねることにした。ひとつだけ確実だったことは、これまでのBMRCとはまったく違うということだけだった。



「もしまた同じようなロック・アルバムを作っていたら、新たな場所を見つけるのは難しかっただろう。だっておれたち、セカンド・アルバムにすべてを注ぎ込んでしまったんだから」ビーンは語る。「これこそおれたちに必要だった真のチャレンジだった。以前は己を駆り立てることなんかしなかったから、だからダメになってしまったんだろう。おれらにできたことは、もっともっとあったんだってわかったよ」

 ヘイズも続ける。

「ビーチボーイズやビートルズやストーンズ、それにニール・ヤングなんかの昔のレコードを聴くと、みんな勘を頼りに進んでいたみたいな感じがあるもんな。それと同じようなものが、このアルバムの指針になったんだ。彼らは本当に楽しんでいたように感じる。自分たちが行き着く場所など知らぬままね」

 インスピレーションの多くは、2人の遠い過去に見出すことができる。ヘイズが、ミネソタ州ニューヨークミルズの農村で暮らした子供時代に、慣れ親しんだカントリーやフォーク、そしてビーンがコレクションしているクラシック・ソウルやR&Bに、リスナーたちはきっと気が付くことだろう。ヘイズは心を動かす語り口で傷ついた思いを呼び起こし、強烈なファーストシングル“エイント・ノー・イージー・ウェイ”や、自伝的でどことなくディランぽい“コンプリケイテッド・シチュエーション”といったトラックすべてで、ボロボロになった魂を抜き出している。

 ビーンは、BRMCの特徴ともいえるリフに支えられたスタイルの、また先にあるものを見つめ、古いゴスペルの幽玄なヴォーカルワークにその方向を発見した。「初期のサム・クックやソウル・スターラーズ、ステープル・シンガーズ、それがおれのお気に入り」彼は言う。“ゴスペル・ソング”や“プロミス”といった楽曲に、明らかにその影響は見て取れる。「おれとピートが取り組んだ8、9のヴォーカル・トラックでは、ゴスペルやクワイアっぽいことをやっている。おれたちにとっては、ギターの壁を置くのと同じことを成し遂げたわけだけど、もっと独特なものになった。でも楽器の多くは代わりのものばかりで、期待していたようなものは何も使えなかったけどね」

 クワイアと様々な楽器(オートハープ、ピアノ、コンガ、スライド・ギター、ティンパニー、ハーモニカなどなど)を加えた2人は、昔に立ち返って、数曲でトロンボーンを用意した。「おれは、学校で4年間トロンボーンのレッスンを受けていたんだけど、偶然、ピーターも6年やっていたんだ」ビーンは笑いながらそう話す。「今までは楽曲で使おうなんて思わなかった。だって‘ストリングスとホーン’の段階を通らなくちゃならなかったバンドなんて、大嫌いだったからね。ああいうのは巧くできすぎていて、あまりにプロフェッショナルな感じに聴こえる。おれたちがこれをやってのけた唯一の理由は、(俺らの場合は)ラフでアマチュアっぽいからだ」

 カントリー、ソウル、フォーク、ゴスペルなどの要素は、つねにBRMCの音楽の一部分にあった。それでも、燃え尽き系パワートリオとして成功を収めていたせいで( “What ever happened to my rock and roll”の好戦的なアンセムで、“リターン・オブ・ロック!”革命を起こした)、世間もそしておそらくはバンド自身も、ひとつのサウンドを守ることが必要だと感じていたことだろう。 だが“ハウル”は、彼ら自身が築いた監獄からの脱出を象徴している。ヘイズは言う。「今、バンドにとって、そういうことはすごく難しいみたいだね。ひとつのサウンドに閉じ込められてしまい、レコード会社もそればかり求めるんだから。全然違う音に矛先を変えようとすると、すぐにレーベルも会社のやつらも引き戻そうとする」へイズはさらに続ける。

「この作品の製作中、おれたちがどのレーベルとも契約していなかったことは、ある意味、役に立ったな。誰からもプレッシャーを受けなかった。それは大事なことなんだよ。だって自分がやっていることに対して、ああだこうだ言われたくないだろ。前作では、ちょっとそんな経験をしたよ。まわりが期待していることはなるべく考えないようにはしたけど、それでも逃げ道はなかったね。でもこのアルバムに関しては、そんなものはなかった。目的は音楽だけだった。誰のためでもない」

「おれたちは新たなアイデンティティなど、見つけようとは思わなかった。これは本当に、おれたちの歴史であり声そのものなんだ」ビーンも付け加える。「今年になって、おれは自分のステージネーム、‘ターナー’を捨ててしまった。今まではたぶん、親父の影になることを恐れていたんだろうな(以前CallのフロントマンだったMichael Been)。でも、自分が何者なのかを思い出すために、本名に戻したんだ。これから向かう場所を知るためには、己の過ごしてきた場所を理解すべきときもある」

 アルバムを完成させるために、雑然とした6ヶ月を過ごしながらも、スタジオのエネルギーは非常にポジティヴで(「一番楽しいレコーディングだった」とビーン)、いくつかの新曲(スリリングで本能的なブルーズ“レストレス・シナー”など)がセッションの間に書かれたこともあり、とても活気付いていた。また、アルバムの目玉である“プロミス”は、レコーディング期間の後半になってから、ある週末に製作し録音を済ませたトラックだが、当初はB面を意図していたという。

 この楽曲に取り掛かったころ、2人はドラマーのニック・ジャゴーと和解し、ニックは再びバンドに戻ることになった。「最高だったよ」とビーン。「アルバムはほぼ出来上がっていたけど、少なくとも彼のお気に入りの楽曲のひとつで、プレイしてもらうことができたんだ。元に戻ったよ」

 パワフルなアルバムが出来上がったことで、契約を求めるレーベルが、あっという間にずらっと整列し、バンドは、RCAのAshley Newton(99年に最初に彼らをヴァージンと契約させたA&R)と共に進むことを選んだ。RCA/ビクター(ブラインド・ウィリー・マクテル、ジミー・ロジャーズ、サム・クック、ウェイロン・ジェニングズといった“ハウル”に影響を与えたミュージシャンたちのホームだ)は、BRMCにとって、最良の居場所に思えたし、また、ヨーロッパのECHOとも契約を果たす。

 「ラッキーだったよ。合衆国のRCAと海外のECHOが手筈するクールなことは、おれたちのAbstract Dragonとリンクしていたからね」とビーンは言う。「ここ2、3年、おれたちは‘己で作り上げる’ことのために、結構な打撃を受けていたんだ。やっと報われたよ」

 やっぱり、BMRCは、ロックン・ロール神話の存在を信じるバンドだと、理解すべきだろう。この一年の経験――変動、混乱、喜び――で、彼らの結束力は大いに強まった。

「今まで言葉にされなかったことが、とうとう口にのぼったんだと思う」ヘイズは言う。「確かにしばらくの間、おれたちはお互いを疑問視していた。だが、バンドの存在は、おれたち3人よりも大きかった。どんなふうに始まって、どんなふうにこの3人が落ち着いたかって物語は・・・・・・それは、よくあることなんかじゃない。こんなふうに共に成長する機会なんて、そうそうないよ。これはすごく大事なことだし、絶対忘れるべきじゃない。それがわかるまで、おれたちはすごくハードな思いをしてきた。でも待ったかいがあったな」