オークンフォールド
 仮にそうなっていたとしても当然偉大な功績を残したに違いないが、ポール・オークンフォールドがシェフにならなかったことをここでみんな感謝しよう。もしかしたら、彼がダンス・カルチャー、そして音楽一般にもたらしたのと同様の衝撃的革命を料理界にももたらしたかもしれない。でも、それじゃあOakey(オークンフォールドの愛称“オーキー”)のお陰で音楽に夢中になれたバーミンガムからブエノスアイレス、ロサンゼルスからクアラルンプールに至るまで世界中にいる何百万人ものクラバーや音楽愛好家は満足しない。アシッド・ハウスの創設者、スーパースターDJ、プロデューサー、リミキサー・・・。この男こそ、常に烏合の衆より何歩も先を歩いてきた男である。そして是非まだまだこれからが本領発揮だ、という我々の言葉を信じてほしい。



-全ての始まり-


 ポール・オークンフォールドは70年代終わりに友人Trevor Fungと共にコヴェント・ガーデンにあるワイン・バーでソウルやレア・グルーヴのレコードをかけるという、驚くほど謙虚なところから音楽活動を始めている。80年代初期には、ニューヨークこそが自分の行くべき場所だと判断し、身一つでNYに移住し、その度胸の良さでウエスト・ハーレムの宅急便会社での仕事を手に入れた。当時、他の何処よりもニューヨークは音楽の新たな発明で溢れ返っていた。ヒップホップが最も新鮮なストリート・サウンドであり、その中でラリー・レヴァンは観客を新たな熱狂の渦に巻き込み、正真正銘初めてのスーパースターDJとなり、後々アシッド・ハウスDJたちの商売道具ともなるその革命的かつ覚醒的なDJスタイルで伝説的なクラブ、パラダイス・カラージを毎週満杯にしていた。



 ロンドンに戻りPaulはUKでヒップホップの権威となった。ChampionレーベルのA&Rを務めた間、彼は当時まだ名があまり知られていなかったDJ Jazzy Jeff & Fresh Prince、それからSalt N Pepaと契約したのである。そうそう、それと彼は当時面倒を見ていたブレイク・ダンス・チームを連れてBlue Peterにもこの時期登場している。



1985年、まだ若かったオーキーはイビザというバレアレス諸島にある美しい島で一夏を過ごした。聞いたことがあるって? そう。オーキーも、あの島を今日のようなクラバー天国にした責任の一翼を担っているのだ。なぜなら、最初に島を訪れてから2年後、彼は再び友人のTrevor Fung、Nicky Holloway、Ian St Paul、Danny Rampling、Johnny Walkerと共に誕生日を祝うために島を一週間訪れている。最初の訪問がまずまずだったとしたら、この訪問こそ、彼らのその後の人生を大きく変えるものだった。当時まだ野外だったAmnesiaで、星空の下、暖かい夜の空気の中で、イビザ島の伝説の人物Alfredo がかける誰も聞いたことがないような不思議な音楽のミックスにあわせて踊りながら、この信じられない体験、そしてこのバレアリック・サウンドを英国に持ち帰りたいというポールの衝動は阻止するにはあまりに大きかった。



-アシッド・ハウス・ブーム-


 イビザに行く前まで、ポールはストリートハムのThe Projectでソウル・ジャズ・ナイトをやってそれなりに成功していた。白い島から帰国したポールはクラブのオーナーを説得して“Ibiza reunion”というアフター・アワーズ・パーティーをやらせてもらうようになる。実はバレアリックの音楽スタイルを導入する試みをポールは一度その一年前に失敗している。あれだけの異なるスタイルの音楽を一晩でごちゃ混ぜに聞かせることは、観客にはまだ早すぎたのである。ましてや一人のDJセットの中でそれをやろうとすればなおさらである。しかし1987年には、ポールの確固たる熱意と音楽で場の空気を作るショウマンとしての才能も手伝って、人々の態度にも変化が表れ始めたのである。パーティーは大成功し、それが後に、チャーリング・クロスのHeavenで開かれたSpectrum という、Danny RamplingのShoomと並んで、ロンドン、そしてイギリスで最初のメジャーなアシッド・ハウス・パーティーへと発展していった。



 SpectrumはFutureというThe Sanctuaryで開かれていたパーティーから発展し、さらに大きなHeavenも併合していった。多くの人がSpectrum (“狂喜の劇場”という妥当な副題がついている)が成功するとは思っていなかった。月曜の夜に1500キャパのクラブで行うパーティーである。ありえないだろう。最初の数週間は集客が低く、ポールと共同プロモーターのIan St Paulは金銭的に大変な窮地に立たされた。すると、突然、盛り上がりを見せ始め、ビルを囲むほどの長蛇の行列ができるようになった。クラブ・カルチャーにとっての新しい時代の幕開けである。

 Spectrumは途中で名前をLand Of Ozに変えながら2、3年続いた。(みんながそうであったように)シーンに初めて足を踏み入れる人はみな、その場所のテンション全開ムードにまず驚く。汗で曇った空中にみんなが手を掲げて、レーザー光線が笑顔の観客を照らす。(後にThe Orbを結成する) Alex PatersonがWhite Room と呼ばれるVIPのチルアウト・エリアでDJをしている間、ポールは今では彼のトレードマークともなった熱烈なセットを洞穴のようなメイン・ルームでまわした。



 成功しているパーティーを運営する一方で、ポールは昔からの相棒スティーヴ・オズボーンと共にプロデューサー活動もElectra名義で1988年に開始する。1989年にはオークンフォールドとオズボーンはハッピー・マンデーズのプロデュースを依頼される。1990年には、The Happy Mondaysの「Wrote For Luck」、それから(『Madchester Rave On』EPに収録された) 「Hallelujah」を手掛けたことで、ポールはインディ・ダンス・シーンの礎石となる2枚のレコードを作ったのである。ギター、ベース、ドラムという音楽形態しか聞いたことのない若者にアシッド・ハウスがどういうものなのかを明確にした混成物(ハイブリット)は当然絶大な支持を受けたのであった。ポールはまた、The Stone Rosesの伝説的なスパイク・アイランドでのライヴのゲストDJでもあった。また彼とオズボーンは、The Happy Mondaysの傑作アルバム 『Pills, Thrills And Bellyaches』(NMEの 1990年年間最優秀アルバム) の仕事で1991年のブリッツ・アワードの最優秀プロデューサー賞を受賞する。それはオークンフォールドとロックとの長い付き合いの始まりでもあった。



 その受賞を追うようにして、重要なイギリスのロック・コンサートの幾つかにDJとして登場するだけでなく、マンデーズのレーベル仲間ニュー・オーダー、マッシヴ・アタック、ザ・シェイメン、そしてアレステッド・デペロップメント等から怒涛のようなリミックスの依頼が来るようになる。またポールとスティーヴはこの頃からPerfecto名義で仕事をするようになる。最初はこの名前を知る人はあまりいなかったが、1991年にオークンフォールド はアルバム『Achtung Baby』を仕上げているU2から依頼を受ける。その結果彼は「Even Better Than the Real Thing」と「Mysterious Ways」のリミックスを手掛け、バンドに全く新しい次元をもたらした。実際、92年には「Even Better Than the Real Thing」はオークンフォールドのミックス・バージョンもシングルとして発売され、美味しい皮肉を盛り込んだこのリミックスは、発売と同時にUKチャートでは、オリジナルよりも高い順位でチャート入りし、U2のオリジナル・バージョンよりも高いポジションにまで上った。このU2の 「Even Better Than The Real Thing」のPerfecto mixで、オークンフォールドは一躍その名は知れ渡るようになったのである。このことは歴史上の重要な分岐点とダンス・ミュージックの発展を示唆した。しかしこれはバンドとオークンフォールドの長い付き合いの始まりでしかない。



-スーパースターDJ!-


 U2との長いつきあいの間には、バンドの歴史的なZOO TVツアーにDJとして招待され、もっと最近では「Beautiful Day」のリミックスを手掛け、U2はこれでアメリカのダンス・チャートで1位を獲得している。1993年には、ポールは「ZOO TV」ワールド・ツアーのオープニングを担うこととなる。その結果、事実上スーパースターDJの時代到来である。過去10年はポールにとって、DJ誌の読者投票で世界ナンバーワンDJに選ばれたことを含め、めまぐるしい「一番」と「最高」の連続だった。また「Oakey!」と彼を愛称で呼ぶ叫び声を世界の隅々のクラブや(グラストンベリーのメイン・ステージでの伝説的なセットを含め)野外会場、アリーナで耳にするようになる。



 プロダクション面に関して触れると、ポールはリミックスを手掛ける一方で、自分自身で作ったトラックを発表するようになる。またその間、Perfectoは完全なレーベルとして活動を拡大していった。そのサブ・レーベルである Perfecto Fluoroは90年代半ばになるとよりハードでトリッピーなゴア・トランス・サウンドにおいて最も注目されるレーベルにまで発展する。今日の PerfectoはArthur Baker、Harry 'Choo Choo' Romero、それとTimo Maasといった多彩なアーティストを抱えている。一つのダンス・ミュージックの形態に囚われることなく、次々と力を蓄えてきたPerfecto のブランド・イメージを築き上げると同時に、ポールは最高のミックスCDシリーズを発表していく。その中にはシリーズの中で最も売れた『Global Underground』用にNYで録った素晴らしいセットも含まれる。また、テレビ史上最大の番組主題歌「Big Brother」のテーマはポールがAndy Grayと共にElement 4名義で作ったのである。



 クラブ最前線のほうでは、さあ、心の準備はいいかい? 今では伝説になっているリヴァプールのCreamでポールは2年間レジデントDJを務めた。彼はレジデンシーという概念をまた新たな領域に持ち込んだ。自分流にデザインされたDJブースや、週末明けの月曜日の朝になっても会社や講堂で耳に鳴り響くような、わくわくさせられる幻想的な音楽の嵐を起こす彼を毎週欠かさず追っかけて各地にやってくる(プレスでは'the Oakenfolk' と称されている)熱狂的ファンを生み出したのである。それでも常に自分に挑戦し続けるポールは1999年にレジデンシーを去り、地元ロンドンのウエスト・エンド地区のど真ん中のレスター・スクエアに何百万ポンドを費やし鳴り物入りで立てたスーパー・クラブの音楽監督に就任した。ポールが去った後のそのクラブの人気の急下降を見れば、彼の影響と支持の大きさがわかるだろう。世界を探しても彼のように観客を熱狂の渦に巻き込むことができるDJはほんの一握りしかいない。彼のプレイを実際生で体験すればその場の興奮がわかるはずだ。それは単に音楽を楽しんでいるというよりも、むしろ信仰に近い。



 自分の生まれ故郷を去ることはポールにとっても難しい判断だった。しかし彼は自分のイギリス及びヨーロッパでの評価を危険にさらし、相当な金額のオファーにも首を振り、アメリカに活動の拠点を移したのである。アメリカこそ、全てがそこから始まったという歴史を抱えていながら、皮肉にもダンス・ミュージックがまだ他に比べてきちんと浸透していない、世界に残された数少ない国の一つである。非常に彼らしい選択とも言える。他の人であれば、苦労して勝ち取った栄光に浸り、腰を落ち着かせてしまうところを、彼は「努力した分だけ報いも大きい」という自分の信条を糧に常に困難の道を選んできた。彼のこの姿勢があったからこそ、彼は絶大な支持層があるイギリスを後にしてアメリカでゼロから始めるのである。それこそ僻地アラスカで数百人の前でプレイしたり、休暇でキューバに行った際も2台のTechnicsターンテーブルを持参し、純粋に生きることを肯定する素晴らしい音楽、それと楽しい時間を広めたいという一心で、告知なしの入場無料の厳密に言えば違法のパーティーを行ったりした。この男は自分のアートのために、正直に生きて、呼吸して、食べているのである。



-この先-


 さて、世界最高のDJという自分の職業の頂点を極めた男は果たして次に何を目指すのだろうか。まあ、当然さらに上へ、限りなく上を目指すのである。2001年にポールはJoel Silverプロデュースによるジョン・トラボルタ主演映画『ソードフィッシュ』のスコアを手掛け、ティム・バートンの『猿の惑星』の主題歌をリミックス、モービーのArea:One 全米ツアーにDJで参加し、さらにはイギリス本国に戻りロンドンのクラッパム・コモン公園で無料ライヴを行い、見に来た何万人ものファンは汗いっぱいにチェシア猫のような満面の笑みを浮かべた。10月にはUKクラブ・ツアーが予定されており、そして新年は・・・? まあ、前にも書いたとおり、まさにこれからが本領発揮。だから目を離さずに注目し続けて、心の準備をしておくように・・・。



-ポール・オークンフォールド: Bunkka-


 2年前、新しい世紀が始まろうとした頃、ポール・オークンフォールドは自分のルーツに立ち返ろうと決心した。当時既にオークンフォールド は間違いなく世界を代表するDJであり、怒涛のクラブ・カルチャーの盛り上がり中で欠かせない存在だったにもかかわらず、彼自身の音楽的ヴィジョンをそのまま捉えたアルバムがまだ出ていなかった。長期に渡ってリミキサー或いはプロデューサーとして活躍してきたにもかかわらず、アーティストとしてのオークンフォールドの真の姿はまだ明かされていなかったのである。



「過去10年間僕はいろいろな名義を使って音楽を発表してきたけど、オークンフォールド名義でアルバムを出すには心の準備がまだできていなかった」と彼は語る。「でも、長い間ずっと考えてはいたんだ。当時幾つかのプロデュース作品で組んでいたスティーヴ・オズボーンにはしょっちゅう、“絶対にやるべきだ。絶対にやるべきだ”って発破をかけられたよ。で、ついに自分としても機が熟した、と思ったわけだ」。世界的に賞賛を浴びているDJ、ポール・オークンフォールドがアーティストとしての初のアルバム・プロジェクトがこのとき遂に立ち上がったのだ。



 その結果誕生したのが『Bunkka』である。Perfecto Recordsより2002年夏に発表される、純粋なポール・オークンフォールドのアルバムとしては実に初めての作品となる。そして多くの人が抱えているポール・オークンフォールド像を覆すような作品である。音楽的手法はダンス・ミュージックの技術を拝借してはいるものの、『Bunkka』はいわゆるダンス・アルバムでは決してない。このアルバムはオークンフォールドにとってこれまでとは全く違う冒険であり、単に自分のDJ業の延長線上にある作品でもない。『Bunkka』はオークンフォールド個人の音楽背景を最大限に探求し反映した作品に仕上がっている。「僕は常に自分の音楽的背景を反映するような作品を作りたいと思っていた」と彼は語る。「僕はポップ・ミュージックを聞いて育ち、ギター・バンドも大好きだし、初期のヒップホップには物凄く影響も受けたし、深く関わってもいた。だから、ただ単に今っぽいダンス・アルバムを作るのではなく、そういったルーツに根ざしたものを作りたかったんだ」と彼は言う。



 しかしながら、自分でも認めているようにオークンフォールドは歌が歌えるわけではない。自分の野望を実現させるために彼はジェーンズ・アディクションのボーカリスト、ペリー・ファレルやロサンゼルスのラップ・ロック・バンド、クレイジー・タウンのシフティー・シェルショックに始まり、トリッキー、ネリー・ファータド、そしてNWAの創設者のアイス・キューブに至るまで、ジャンルの異なる多彩な才能溢れるアーティストたちの協力を得ている。



 その他にもソー・ソリッド・クルーのアッシャー・D 、それから90年代のLAロック・バンド、グラント・リー・バッファローの創設者、グラント・リー・フィリップスも参加している。また、『BUNKKA』はカーラ・ワーナー、ティフ・レイシーそしてエミリアーナ・トリーニといった売り出し中の若きボーカリスト3名にも活躍の場を与えている。しかし、この作品の最も意外な参加アーティストは、ローリング・ストーン誌の国内問題担当デスク時代における活動が、ゴンゾ・ジャーナリズムの旗手として、今なおアメリカだけでなく、世界的に今なお重要な文化的影響力を持つジャーナリストであり、ジョニー・デップ主演で映画化もされた有名な『Fear & Loathing in Las Vegas』(邦題:『ラスヴェガスをやっつけろ)の原作者でもあるハンター・S・トンプソンだろう。



 音楽の輝ける多様性、それと彼の折衷的な参加者の選択は決して驚くことではない。実際オークンフォールドのとどまるところを知らない想像力は彼の音楽活動を通して証明されている。オークンフォールドはこれまで現代音楽シーンに多大な貢献をしてきた。ヒップホップの幕開け、ブリティッシュ・ダンス・カルチャーの再構築から、スペインのバレアレス諸島 イビザでの「バレアリック」の爆発的現象、そしてマンチェスター・シーンの誕生まで、彼の名前は至るところで目にすることができる。



 ご存じの通り、彼が音楽活動を始めたのは80年代終わり頃で、当時はロンドンのウエスト・エンド付近の小さなクラブでDJとしての腕を磨くところから始まった。やがて名前が知られるようになり、UKに拠点を置くレーベルChampion RecordsでA&Rの仕事に就く。その後ChampionからオークンフォールドはProfileとDef Jamレーベルのロンドン・オフィスへと職場を移した。しかしこの頃既に、彼の中でDJとしての道のほうに気持ちが傾いていたのである。そんな彼の野望はすぐに満たされることになる。



 オークンフォールドは80年代後半から90年代初期のヨーロッパにおけるユース・若者カルチャー文化を一変させた。彼を含む何人かのDJがイビザ島でレギュラー・パーティーを始めたことによって、後にダンス・ミュージックにおける新しいサウンドが誕生し、毎年夏になるとヨーロッパ各国から若者が一斉にイビザ島に集結するようになった。オークンフォールドはロンドンでも、“バレアリック”のクラブ・ナイトをレギュラーで始め、ロンドンのダンス・シーンのみでなく、ハッピー・マンデーズやザ・ストーン・ローゼズといった、後にUKの音楽シーンに影響を与える中枢的なロック・バンド等、分野の異なる様々なユース・カルチャー・シーンからも注目されるようになった。その結果生まれたのがマンデーズの『Madchester Rave On』 EP。後のUKのあらゆるアーティストに影響を与えたレコードである。その次に登場したのが、オークンフォールド / オズボーン・チームがプロデュースを手掛けた1990年のアルバムでマンデーズの最高傑作『Pills 'N' Thrills and Bellyaches』である。この作品は90年代のUKにおいての金字塔を打ち立てた作品の一つとして今も燦然と輝いている。



 それはオークンフォールドとロックとの長い付き合いの始まりでもあった。数々のUKのトップ・アーティストのDJとして出演するだけでなく、オズボーンと共にニュー・オーダー、ザ・キュアーやマッシヴ・アタック等のリミックスも手掛けている。他にもオークンフォールドのDJとしての輝かしい実績は、U2との大成功を修めたコラボレーションをはじめ、スヌープ・ドギー・ドッグ(現スヌープ・ドッグ)、ザ・ローリング・ストーンズ、インキュバス、モービー、スマッシング・パンプキンズ、マンサン、デュラン・デュラン、INXS、ティアーズ・フォー・フィアーズ、シンプリー・レッド、ネナ・チェリー、ミーシャ・パリス、DJジャジー・ジェフ&フレッシュ・プリンス、NERD(ザ・ネプチューンズ)、そしてマドンナといった超一流アーティストのリミックスも含む。当然、どのアーティストもオークンフォールドとの仕事に対して高い評価をしている。



 自分の運命は自分で切り開きたいという硬い決心のもと、リミックス以外にもオークンフォールドは1990年に自身のレーベルPerfectoを設立した。後々Perfecto はオークンフォールド自身のリミックス作品を出す泉としての役割だけでなく、新しい才能あるアーティストにも活躍の場を提供し、ヨーロッパの若きDJ、Timo MaasやHernan Cattaneoらを応援してきた。



 今おそらくオークンフォールドこそが世界ナンバーワンDJと言えるのではないだろうか。むろんその名声を計る正確な方法があるのであればだ。オークンフォールドは世界中を回っている。彼はアラスカのアンカレッジ、北京、ボンベイ、リオ・デ・ジャネイロ、ブエノスアイレス、ウルグアイのプンタ・デル・エステ、韓国、マカオ、フィリピンのマニラ、ヨハネスブルグ、エジプト、そしてヴェトナムのホー・チミン市等でもプレイしている。



 最近では、アメリカの映画産業からもオークンフォールドの才能は認められている。彼はジョン・トラボルタ主演映画で週間興行収入No.1にも輝いた『ソードフィッシュ』の映画音楽を手掛け、Tim Burtonの「猿の惑星」にも貢献している。

 映画音楽の世界での活躍と平行するように、最近アメリカのエレクトロニック・チャートのトップ50に5枚もオークンフォールドのアルバムがエントリーした。その中には2000年発表当時アメリカで最も売れたDJミックス・アルバムとなった『Perfecto Presents Another World』も入っている。オークンフォールドはまた昨年夏アメリカで行われたモービーのとてつもなく大掛かりなArea: Oneフェスティヴァル・ツアーのDJを大トリも務めた。



 過去10年、(アラスカから北京、ボンベイ、ホーチミン市まで)世界中をDJして回ったオークンフォールドは、『BUNKKA』発売後の今年後半に予定されている初のライヴ・パフォーマンスの構想を、現在まとめている最中である。世界中で猛威を振るうであろうオークンフォールドの新たな快進撃が遂に開始されそうだ。



 果たしてダンス・シーンは『Bunkka』をどう受け止めるだろうか。「どんな音楽であろうと境界線を押し開いていかなきゃいけないってことをみんなが気付いてくれることを願うよ」とオークンフォールド は語る。「僕はヒップホップからギター・ミュージック、そしてダンス・ミュージックとあらゆる音楽から影響を受けている。ダンス・ファンにも是非そこを理解してもらいたい」



Perfecto Records Info.




 ポール・オークンフォールドの審美眼とタイミングを見極める感覚は完璧に近い。プロデューサー、DJ、リミキサー、そしてPerfecto Records の社長として、彼こそが次々と新たに生まれる音楽ジャンル裏の仕掛け人である。ポールはまさに理想の位置に自分を置いている。1週間かけてスタジオで曲を作り、それを2,3日後には10万人の人に聞かせられて、さらには自分のレーベルからリリースすることもできる。DJ業そのものに関して言うと、グラストンベリーのメイン・ステージからボンベイや中国の薄気味悪い小屋に至るまで全てをやり尽くした。



 彼はアメリカや他の地域での綿密に練られたツアー、Creamでの2年間のレジデンシー、BBC Radio 1用にやった幾つかの素晴らしいエッセンシャル・ミックス等を通じて、トランスという自分のサウンドをゆっくり、しかし確実に広めてきた。彼は今やある意味Radio 1のDJ特使である。羨ましい限りの彼の任務は最良の音楽を世界の最も辺鄙な場所からプレイすること。



 ポールは自身のレーベルPerfectoを1990年に興した。しかし今や21世紀現象とまで言われて世界規模で拡大しつつあるトランス人気のお陰で、彼のレーベルはこれまで以上に意味を成している。ポール自身のプロジェクトに加え、ハウス・アクトのPlanet Perfectoのチャートでの大成功を下に、Perfectoはトランス・シーンにおいて新世紀最も熱いブランドである。



 ポール自身の作品の発表の場であると同時に(2002年にはアルバム発表も予定されているが)Perfectoはそれぞれ個性的で将来性のある国際的なダンス・アーティストの養成所に発展させようとしている。世界各国を駆け巡るDJ活動がA&Rとしてのポールのアーティスト発掘能力を発揮する場にもなっている証拠である。



 ドイツのマルチ・ジャンル・アーティストのティモ・マースがアルバム契約を交わしている。また2001年後半にPerfectoからシングルを出したアーティストにはアルゼンチンのHernan Cattaneo、イタリアのNilo 、テキサス出身のD:Fuse、ニューヨーカーのHarry "Choo Choo" Romero、イスラエルのFlash、マンチェスター出身の2人組Konkrete、それから今最も話題のトランス・アーティストでロシア出身のPPKがいる。



 Perfectoの国際的「Underground Sounds」EPシリーズは既に2001年だけでアメリカとオーストラリアからのサウンドを世界に提供し、来年もさらなる企画が予定されている。また、「Perfecto Presents」ミックス・シリーズでは既にポール自身による素晴らしいミックス・コンピレーションを2枚、それに加えてティモ・マースの「Connected」と伝説的DJのアーサー・ベイカーの作品集を発表している。また新たなリリースも進行中である。