デルタ・グッドレム
子供の頃からの夢=ミュージシャン
1984年11月9日生まれ、シドニー郊外のグレンヘイヴン出身。幼い頃から歌うことが好きで、親戚や近所の人たちを招いてはオリヴィア・ニュートン・ジョン、マライア・キャリー、プリンス、シェールなどの楽曲を披露していた。7歳から本人の希望もあってドラマ・スクールに進学。8歳からピアノを習い始め、ヴォーカル・レッスンも開始。『才能があるかどうかは私にはわからなかったけど、やる気があるのだけはわかったわ。6~7歳で真剣にミュージシャンの道を進もうとしていたの。だから私たちはできるだけのことをしてあげようと思ったの』(デルタの母)『音楽をやりたい、って特に思った瞬間、っていうのはなくて、いつもやりたいと思っていたわ。実際に子供の私が“将来はシンガーになる!”って言っているビデオもあるのよ』(デルタ)



子役スター=デルタ・グッドレム
ドラマ・スクール経由でデルタのもとにはTV番組やコマーシャルのオーディションの話が舞い込み、オーディションを受ける日々が。その才能は早くから開花し、7歳からTVコマーシャル、 “Hey Dad!” ”A Country Practice” “Police Rescue”といったドラマに出演するなど、順調にショービズ界でキャリアを積んでいった。しかしデルタの夢は第一に歌だった。そのためTVで稼いだお金は、デモ制作に向けていた。『両親からは“せっかくのお金だから、車を買うかCD制作に使いなさい”って言われて、CD制作に使ったの。変わった子供よね。おかげで今でも車は持っていないのよ』(デルタ)



デモCDからソニー・ミュージックと契約に
そしてデルタは12歳で早くも初めての曲を作り、翌年13歳のときに5曲入りデモCDを制作。友人の手を通してデモCDは地元オーストラリアのスーパースター、ジョン・ファーナムのマネージャーのもとに届き、マネージメント契約を果たす。そして15歳で現地オーストラリアのソニー・ミュージックと契約に結びついた。『グレン(マネージャー)がCDを受け取ったその日に電話をくれて、ミーティングをしたの。そのあと彼がソニー・ミュージック用にショーケースを開催してくれて、契約につながったの。』(デルタ)



失敗から学んだ苦いデビュー作
16歳の時にシングル “I Don’t Care” をリリース。クリスティーナ・アギレラの「ジーニー・イン・ア・ボトル」で一躍有名となったオーストラリア出身のソングライター、スティーヴ・キップナーのポップな楽曲は、バラードを得意とするデルタの指向とはあわず、ヒットにはならなかった。『確かに失敗には終わったし、そのことに不満を持ったりもしたけど、(”I Don’t Care”をリリースしたのは)後悔していないわ。おかげで私は“ピアノの前でバラードを歌うことが好き”ってことを再確認できたし、それが(バラードで、デビュー曲の)「ボーン・トゥ・トライ」につながったんだもの』(デルタ)



私のルーツ=ピアノと作ったデビュー・アルバム
“私はシンガー・ソングライターになりたい”ということを強く意識したデルタは、アルバムのソングライティングにあたり、自分のルーツに戻り、ピアノで楽曲作りをすることになった。『他の人がどう思うかじゃなくて、私は私の音楽を作るべきだと思ったの。8歳の頃からピアノを弾いて曲を作って、デモCDの5曲も全部バラードだった。それが私のルーツなんだから、そういう曲を作るのが良いって気づいたの』(デルタ) − 自身のソングライティングに加え、元テイク・ザットのゲーリー・バーロウやエリオット・ケネディ(セリーヌ・ディ音などを手がける)などを加えて完成した、ピアノを中心に組み立てられた傑作アルバム『イノセント・アイズ』がこうして完成する。



スターの登竜門『ネイバーズ』への出演決定!
しかしアルバム制作と並行して、2002年にはドラマ『ネイバーズ』にニナ・タッカー役として出演が決定。そのため昼間はドラマ撮影、夜はアルバムのレコーディングで、1日2時間しか寝られないこともざらだったとか。しかしデビュー前にして既にデルタはお茶の間に知られる存在となり、また番組の中でシングル「ボーン・トゥ・トライ」を披露することにもつながり、その美しい歌声はTVを通して世界中の人に届けられた。『でもね、いつも“歌うときの声が大きすぎる”って音響さんに怒られちゃうの』(デルタ)



スター=デルタ・グッドレムの誕生
確かな歌唱力、ポジティヴなメッセージ、壮大なバラード・・・新たなスター到来を告げたデビュー曲「ボーン・トゥ・トライ」は2002年11月にリリースされるや、オーストラリアのセールス・チャート1位に輝き、その後3ヶ月近くトップ5をキープする特大ヒットに。続くシングル「ロスト・ウィズアウト・ユー」も当然1位を獲得、満を持して2003年3月にリリースされたデビュー・アルバム『イノセント・アイズ』も1位と、オーストラリアの新たなスーパースターとしての道を歩み始めた。このアルバムは、海外からTrue North(テイク・ザットのゲイリー・バーロウを中心とするプロダクション・チーム)やリック・ウェイク(ジェニファー・ロペスやマライア・キャリーの作品でお馴染み)、地元からはデヴィッド・ニコラス(イン・エクセスやジョージをプロデュース)等々トップ・サウンドメーカーたちの協力の下に制作されたが、彼女自身も全面的に曲作りに関わり、ヴォーカルとソングライティング双方で高い評価を得た。



衝撃・・・
同年6月にリリースされたサード・シングル「イノセント・アイズ」もチャート1位になり、向かうところ敵無しのデルタを、大きな不幸が襲った。7月、デルタはホジキン病(リンパ組織を構成している細胞ががん化して起こる病気)と診断され、ニュースが公表されるや否や、衝撃が走った。 − 『不幸中の幸いで、早い時期に病気が発覚しました。世の中には私よりもひどい症状に苦しむ人たちがたくさんいます。私は病気を治せばまた生きることができるから、今は何よりもまずこの病と闘って、良くなろうと思います。』(デルタ) − 明るく、強く病に立ち向かうデルタの姿勢は世界中のファンからの涙を誘った。



ARIA Music Awards 史上最多ノミネート!
病にも関わらず、デルタのパワーが衰えることはなかった。9月に発売された続く4作目のシングル「ノット・ミー、ノット・アイ」も1位となり、同月発表のオーストラリア版グラミー賞ともいえる、ARIA Music Awardではなんと史上最多8部門10ノミネート!しかも最高売り上げシングル部門ノミネート5曲のうち3曲をデルタの楽曲が占める、という新記録を樹立!その年の顔となったデルタだが、体調もあり、授賞式出演が危ぶまれていた。しかし医者の許しもあり、出演が決定、とのニュースにオーストラリア中が沸き立った。それはデルタ自身にとっても嬉しい出来事だった。『ARIAに出席できるなんて、私の長年の夢がかなったわ!ちょっと興奮気味で本当にうきうきしているんだけど、緊張もするわね。何よりもいろんなミュージシャンにあえるのが楽しみ!』



そしてARIA Music Awards 史上最多受賞!
そして10月21日、授賞式。結果はなんとデルタが8部門中、史上最多の7部門を受賞!逃したのは最優秀アルバム部門のみ、という結果に!オーストラリアの新しいスターとしての存在を確固たるものにした(それまでの記録は1999年、ナタリー・インブルーリアの6部門受賞)。授賞式中、歌うことのできないデルタに代わり、元サベージ・ガーデンのダレン・ヘイズがデルタの「ロスト・ウィズアウト・ユー」をピアノ伴奏のみで熱唱。『それまですごく(泣かないように)頑張っていたんだけど、ダレンの歌を聴いたらもう限界だったわ。』 − デルタの涙の授賞式は、なんとこのアウォード放送史上最高の視聴率、42.8%を叩き出した!


  • ●Best Female Artist for “Innocent Eyes”(最優秀女性アーティスト)

  • ●Best New Artist for album, “Innocent Eyes”(最優秀新人賞、アルバム部門)

  • ●Best New Artist for single, “Born To Try”(最優秀新人賞、シングル部門)

  • ●Best Pop Release for “Innocent Eyes”(最優秀ポップ・アルバム)

  • ●Single of the Year for “Born To Try”(最優秀シングル)

  • ●Highest Selling Album for “Innocent Eyes”(最高セールス・アルバム)




記録尽くし、オーストラリア史上最大のスターに
そして現在、アルバム『イノセント・アイズ』は国内だけで100万枚を突破、世界合計で230万枚のセールスを達成。チャートではなんと通算29週間1位の新記録を樹立!また5作目となるシングル「プレディクタブル」も1位になり、1枚のアルバムから5枚のナンバー1シングルを出した史上初のアーティストになった。もちろん地元では年間ナンバーワン・アルバムとなり(年間DVDチャートの首位を飾ったのも彼女のビデオクリップ集『デルタ』。50万枚を売り、映像作品としてはオーストラリア記録を更新)、1位在位記録は歴代2位!地元勢だけに絞ると彼女の29週は最長記録だという。また、地元アーティストのアルバム・セールスが100万枚を突破したのも35年ぶりで、1枚のアルバムから5枚のナンバーワン・シングルを送り出した地元アーティストは彼女が初めて。しかも5曲全てが年間シングル・チャートの20位以内に入り、新人としてはオーストラリア音楽史上前例のない成功を収めたのである。



復活した歌姫
翌04年、療養生活の傍らレコーディングを続けていたデルタは、ニュー・シングル『アウト・オブ・ザ・ブルー』(全豪チャート3週連続ナンバーワン)に続いて11月にセカンド・アルバム『ミステイクン・アイデンティティ』をリリース。こちらも前作と同様に初登場1位を記録したが、波乱に満ちた03年の経験に基づいて曲を綴っただけあって趣は大きく異なり、非常に内省的で影のある作品に仕上がっていた。コラボレーターのラインナップにも変化が見られ、長年ロビー・ウィリアムスの音楽的パートナーだったガイ・チェンバーズや、P!NKの近作で知られるビリー・マンらを新たに起用。中でもデルタにかねてから注目していたというガイが、多数の曲を共作している。また、シングルカットされた5曲のうち『Out of the Blue』と並んで全豪1位を獲得した『Almost Here』は、元ウェストライフのブライアン・マクファーデンとのデュエット曲(同時期に発売された彼のソロ・デビュー作『アイリッシュ・サン』にも収録)。



新たな門出、新たな章
一方、05年春に映画初主演作『ヘイティング・アリソン・アシュリー』が公開され、7月には初めてのツアー“ヴィジュアライズ・ツアー”(そのシドニー公演を収録したDVD『ヴィジュアライズ』も11月に発売)をオーストラリアで敢行するなど活動の幅をさらに広げたデルタ。アメリカ進出にも乗り出し、一時は拠点をニューヨークに移していたが、06年3月に久々に帰国。メルボルンで行なわれたCommonwealth Games(英連邦諸国が会するスポーツの祭典)の開会式という大舞台で、ガイ&ブライアンと書き下ろした『トゥギャザー・ウィー・アー・ワン』を披露する。この曲は当初リリースの予定はなかったものの、TV中継を通じて大反響を呼んだため正式にシングル化され、全豪2位を記録。現在デルタは次のアルバムに向けて曲作りを進めながら、2006年10月の日本デビューを心待ちにしている。