キャンディ・ペイン
キャンディ・ペインは4歳のとき、リバプール郊外ののどかな町からジュリアーニが市長になる前の1980年代のニューヨークへ引越した。ストリートではヒップホップ全盛、何事もテンポが速く、人種の坩堝のこの大都会は、両親が幼いキャンディに良かれと思える養育環境とは程遠かった。何度も転校を繰り返すたびに友達作りのきっかけとなったのは、幼少の頃から恵まれていた絵を描く才能だった。「私は引っ込み思案じゃなかったけれど、すごく繊細で物静かだったから、よく一人で絵を描いていたのよ。すると他の子たちが何を描いてるのって見にやってくるから、描いてみせてあげるの。そうやって友達を作ったわ」。

アートへの情熱は10代後半になるまでずっと続き、90年代初めに決心してリバプールへ戻ったときも変わらなかった。ブロック・ロッキン・ビーツの街から微笑みの街へと戻ったわけだが、人格形成期をビッグアップルでもまれて育ったキャンディは、物怖じしない自信に満ちた性格になっていた。

音楽好きの家族の影響で身の回りに音楽があふれていたため、キャンディも10代始めの頃にはかなり興味を持つようになっていた。「パパもママもいつだって、アーティ・ショーやビリー・ホリデー、フランク・シナトラなど、ありとあらゆる偉大なシンガーのレコードをかけていたわ」。耳の肥えた両親に加えて、兄たちの持っていたザ・フーやニルヴァーナ、ザ・バーズといったバンドやジミ・ヘンドリックスのレコードも彼女の音楽の幅を大いに広げてくれた。そしてイギリス人には欠かせないお茶の時間、従順な妹が兄の寝室にお茶を持っていってあげると兄はデモを作っていた。妹は何をおねだりしたかって? 自分ヴァージョンの「ノルウェーの森」と「ア・デイ・インザ・ライフ」をテープに録ってもらったのだ。

ハードコアに夢中だった楽しい10代は瞬く間に過ぎ、キャンディのアートへの抱負はまだ消えていなかった。ことにファッション・デザイナーへの夢は膨らむばかりで、試験の合間に自分や友達用の服をデザインしては作るようになっていた。しかし大学の芸術基礎過程に進んだもののうまく行かず早々に挫折。「途方に暮れるばかりだったわ。何かクリエイティヴなことをやりたいと思ってたんだけど、それが何か分からなかった。だから意識的に、心をオープンにしてどんなチャンスでも掴んでみようと決めたの」。

なんとチャンスは無数にあった。リバプール中心にあるトレンディーなヴィンテージ服の店「リザレクション」の店員というオイシイ仕事をすることになったおかげで、バンドやDJ、カメラマンなど様々な業界の大物たちがジーンズを買いにやってきたり、コーヒーを飲みながらレコードや噂話を交わすのを目の当たりにできた。「そういう環境にいたことで、音楽への興味が急に高まり、自分のライフスタイルにもそれが反映されるようになったのよ。スライ&ザ・ファミリー・ストーンやファンカデリック、ザ・ミーターズなどを初めて聴いたのもあのお店だった。あそこにいなければ聴くこともなかったようなレコード。リザレクションで働いた数年間は私の音楽面での形成期だったのよ、ニューヨークの慌しい地下鉄が私の性格を形成したようにね」。
そういうわけで、モデルやイラストなどを経験してみる一方で、キャンディは初めて音楽業界に足を踏み入れた。ドリー・パートンの名曲「ジョリーン」を地元の人気バンド、トランプ・アタックと歌ったのだ。評判はたちまち広まり、元ステアーズのフロントマン、エドガー・ジョーンズから声がかかった。彼の新しいプロジェクトで歌わないかとの申し出に、ほぼ1年間かけて本格的にヴォーカルに磨きをかけた。バンドの方向性が変わったため、キャンディは降り、お次を探したが、それはリバプールのジャズバンドでたまに歌うというものでしかなかった。ところがここで運命が味方してくれた。バンドワゴンの中心人物で長年の友人のゲーリー・バンディットが、キャンディをプロデューサーのサイモン・ダインに紹介したのだ。ダインはちょうど、一緒にソングライティングできるシンガーを探していた。キャンディとサイモンはまずラフなデモを作って一連のヴァースを手書きすると、スタジオ入りして、このデビューアルバムに取り掛かったのである。

このアルバムは間違いなく現代のアルバムだ。数10年前のサウンドとスタイルを最新版にアレンジしているだけでなく、24歳のキャンディの歌、音楽、レコーディングにかける情熱からわき上がる新鮮で伸び伸びとしたサウンドがある。彼女は最近、1976年のミュージカル映画「ダウンタウン物語」サウンドトラックを単に自分がやりたかったからという理由でレコーディングしており、「素晴しい曲ばかりで映画から切り離しても十分名曲としての価値があるわ」と話している。今後、B面に収録されるかもしれないからお見逃しなく。
(2007.5最新バイオより)