ユリア
モスクワの南、約700キロ。かつては“スターリングラード”という名称で知られ、同名の映画の舞台となったことでも知られる街、ヴォルゴグラードでユリアは生まれ育った。

彼女が5歳の時に父が家を去り、以来、母と祖母とともにつつましやかな暮らしを送っていた。

幼い頃から音楽が大好きで、かつてはオペラ歌手を目指していたという祖母の歌声を聴きながらいつかは自分も有名になるのだと夢を描いていたユリアだったが、祖母や親戚はそんな彼女の夢を「あんたみたいな汚い声の子には無理だよ」といって本気で取り合おうとしなかった。

そんなある日、厳しい家計をやりくりしながら、母がユリアにラジカセを買い与えた。ラジオから流れるポップ・ミュージックに初めて触れたユリアは感動し、そしてマドンナを聴いて衝撃を受ける。

「絶対に有名になって見せる」

何の根拠もない思い込みだった。



そんなユリアに思いがけぬ転機が訪れる。

ニュージーランドの男性と、ユリアの母の交際が始まったのだった。英語が不得手な母に代わって、読み書きはなんとかできたユリアがメールの翻訳をして育んだこの恋物語は、そして結婚という幸せな実を結ぶ。そして2002年の暮れ、ユリアはニュージーランドのクライストチャーチに移住したのだった。



祖国から遠く離れ、言葉の壁に悩み、友達のいない孤独から押しつぶされそうな毎日だった。スーパーで言いたい事が伝わらずに泣き出してしまったこともあったという。だが必死の努力の末、ユリアは地元の学校に入学を許可される。

それが彼女にとって二つ目の転機だった。



地元のとあるテレビ番組に、ユリアが通うハイスクールの吹奏楽部が出演することになっていたのだが、急遽キャンセルせざるを得なくなったのだ。そこで、学校の音楽の先生の推薦でユリアに代役としての白羽の矢が立った。

前日に言われたにも関わらず、ユリアは見事に代役をこなした。

「美しいロシアの娘がスタジオに入ってきて、ギター片手にロシアの民謡を歌ってくれたんだよ」番組のプロデューサーは語る。「その深い情感に思わず涙が出てきたんだ。歌い終わった時にはスタジオ中がシーンと静まり返っていたよ」

「あまりに静かだったから」とユリアはその当時のことを思い起こす。「なんか大失敗しちゃったんじゃないかと思ったわ」

この番組の録画テープが、ニュージーランドが生み出したもう一人の歌姫、ヘイリーを売り出したことで知られるグレイ・バートレットに渡された。バートレットはビデオを見た瞬間に契約を決意したという。

バートレットをマネージャーとして迎えたユリアは、早速ラッセル・ワトソンの日本公演の共演者に抜擢された。生まれて初めて立ったステージがオーチャードホールという幸運な17歳は、緊張しながらも堂々たる歌唱を聴かせ、拍手喝さいを浴びた。



その後、ユリアはニュージーランドのソニー・ミュージックと契約、2004年の9月にデビュー・アルバム『イントゥ・ザ・ウェスト』を発売する。

同アルバムは発売されると同時に総合チャートの1位にランクイン。あっという間に、ヘイリーのデビュー・アルバムと並ぶ6万枚のセールスを記録することになる。



2年前にはロシアで有名になることを夢見、そして一年前まではニュージーランドのスーパーのレジを売っていた少女の、まさにシンデレラ・ストーリーと呼ぶに相応しい物語がここに完成する。



アルバムには映画『ロード・オブ・ザ・リング』の主題歌でもあるタイトル曲の他、「スカボロー・フェア」などといった作品や、サラ・マクラクランの「エンジェル」といったポピュラーな作品、さらにはニュージーランド先住民であるマオリ族の楽曲や彼女自身のルーツでもあるロシア民謡まで実に幅広い。また、彼女自身が祖国への郷愁を込めて書き上げた「ロシア」も収録されている。

ユリアの、時に透明な、そして時に深みのある、情感豊かな歌声はまさにミューズからの贈り物だ。19才にして夢を叶えた、ロシアの美しき歌姫はそして次の夢を求めて羽ばたくのだ。