スティーヴ・ウィンウッド
イギリスはバーミンガム、ハンズワースで1948年5月12日に生まれたウィンウッドは、幼い頃から音楽に興味を持っていた。両親リリアンとローレンスの支援を受けながらギターとピアノの両方に驚くべき才能を発揮した。レイ・チャールズに強く影響されたウィンウッドは、クラッシック・ギターとピアノを学びながら、学校でも音楽の技術を伸ばしつづけた。そして、ジャズ、フォーク、ブルース、R&Bをひとつにまとめあげるという考え方に興味を持つようになり、ウィンウッドは兄のマフ・ウィンウッドと、1963年にスペンサー・デイヴィス・グループを結成した。ウィンウッドは、まだ弱冠15歳であったが、リードヴォーカル、リードギター、キーボードをこなす天才ミュージシャンとして大きな注目を集めた。グループは「Keep On Running」で全英シングル・チャートのトップへとのぼりつめた。さらにスペンサー・デイヴィス・グループは記憶に残る2枚のシングル「Gimme Some Lovin'」と「I'm A Man」により、世界的な成功をおさめた。



1967年4月、ウィンウッドはスペンサー・デイヴィス・グループを去り、ディープ・フィーリングのジム・キャパルディとクリス・ウッド、ヘリオンズなどでプレイしていたデイヴ・メイスンらとトラフィックを結成。ウィンウッドがハモンドB-3オルガン特有のサウンドに強い関心をもつようになった経歴は、このトラフィックにまでさかのぼる。この名器は、トラフィック・サウンドの重要な要素のひとつだった。67年にシングル "Paper Sun" でデビューを果たし、傑出するデビュー・アルバム『Mr. Fantasy』に始まり、3作のアルバムをリリース。当時、商業的成功をおさめたグループのひとつとしてもトラフィックは確かな評価を得た。



1969年、ウィンウッドはトラフィックを離れブラインド・フェイスを結成した。初めての“スーパーグループ”だと声高に叫ばれ、グループのオリジナル1stアルバム『Blind Faith』は世界的な大ベスト・セラーとなった。「Can't Find My Way Home」や「Presence Of The Lord」のようなテーマ・ソングをウィンウッドはエリック・クラプトン(ギター)、ジンジャー・ベイカー(ドラムス)、リック・グレッチ(ベース)と共に楽しんだ。ここでは文字どおり特別な化学反応がはっきりと現れている。英国における数回のギグとアメリカツアー、そして英米でチャートの1位を獲得したアルバム1枚をリリースしたのみで、同年の終わりにあっけなく解散した。69年の暮れ、スティーヴとクラプトンはそれぞれ別のプロジェクトに移行。



翌年、ウィンウッドはトラフィックを再結成した。『John Barleycorn Must Die』(1970)、『The Low Spark Of High Heeled Boys』(1971)、『Shoot Out At TheFantasy Factory』(1973)、『When The Eagle Flies』(1974)のような優れたアルバムはそれぞれに全米チャートのトップ10入りした。トラフィックはさまざまな音楽要素を取り入れた独特のスタイルによるサウンドを展開し、総計7枚のアルバムと2枚のライヴ盤をリリースした。(94年にはスティーヴとジムにより20年ぶりの再結成を果たし、アルバム "Far From Home" をリリース、今後はソロ活動と平行してバンド活動も継続させるという。)



トラフィック解散後ソロ活動へ。77年に『Steve Winwood』でソロデビュー。80年に 『Arc Of A Diver』(全米7位「While You See A chance」他収録)発表全世界で700万枚の売上げた。86年には"Higher Love"の大ヒットも伴い、彼にとって、現在までで最大のセールスを記録した『Back In The High Life』 発表。グラミー賞5部門にノミネート(その年の最大ノミネート)、結果“Record Of The Year”“Best Male Vocal”他の3部門を獲得した。Virgin移籍第一弾、88年の 『Roll With It』(全米No.1&88年ビルボードTOP SONGとなった「Roll With It」他収録)はソロキャリア初の全米No.1アルバムとなった。現在までにソロとしては7枚のアルバムをリリースしている。今作は97年の『JUNCTION SEVEN』以来6年ぶり、通算8枚目のソロアルバムとなる。



他にもサード・ワールドや、日本人パーカッショニストのツトム・ヤマシタによる75年のプロジェクトGOなどにも参加し、幅広い音楽活動を展開。このほかではエリック・クラプトンの "Rainbow Concert" やロニー・レインの "The ARMS Concert"、ザ・フーのオーケストラ版ロックオペラ "Tommy" などにも参加。セッション参加として代表的なところではジミ・ヘンドリックスの "Electric Ladyland"(68年)をはじめ、ジョージ・ハリスンの "慈愛の輝き/George Harrison" やマリアンヌ・フェイスフルの "Broken English"(共に79年)、ビリー・ジョエルの "The Bridge"(86年)やフィル・コリンズの "...But Seriously"(89年)など、数多くのミュージシャンとの共演を果たしている。



近々ではロンドンのバッキンガムパレス・ガーデンにて2002年6月3日に開催された、英国女王の50周年祝典コンサートに参加。ステージの後半で "Gimme Some Lovin'" を歌ったほか、ジョー・コッカーの "With a Little Help From My Friends" と、レイ・デイヴィスの "Lola"、さらに "All You Need Is Love" とポール・マッカートニーを中心に皆で合唱したフィナーレの "Hey Jude" のバックでハモンドオルガンをプレイした。



そのキャリアを通じてウィンウッドの持続性、人を感嘆させる能力の大きさは決して縮小していない。ウィンウッドは、その成果の数々をまちがいなくひとつひとつ理解する一方で、ひるむことなく着実に前進し『About Time』に証明されるように、新しくてエキサイティングな作品を創造し演出する。デビュー作をレコーディングしてから約40年経過した今でも、すべてのポピュラー・ミュージック界における重要で影響力のあるアーティストのひとりで在り続けている。