シャーデー
ナイジェリア人の父とイギリス人の母を持ち、天賦の美貌と知性、音楽の才能、そして類稀なる声を備えた唯一無二のカリスマ、シャーデー・アデュー(50)を中心とする伝説的なイギリスのグループ。アデューは幼少時イギリスとナイジェリアを往復し、以後はイギリスに永住。父が大のジャズ・ファンだった事から、両親の離婚後もその血を引継ぎ、レイ・チャールズやビリー・ホリデイ、アレサ・フランクリン、マーヴィン・ゲイといったR&Bの世界へと傾倒、シンガーを目指すようになる。 

成長したアデューはロンドンのアートカレッジで、メンズ・ウェアのコースを学び、その後メンズ・ファッションのデザインを手掛ける等の普通のアーティストとは違ったキャリア・パスを持つ。その後シンガーへの夢を捨て切れずに音楽活動を続け、シャーデーを結成。彼女の魅力的ルックスとそのソフィスティケイトされたサウンドは一躍シーンで大きな話題となり、エピックと全世界契約を結ぶ。デビュー・シングル「ユア・ラヴ・イズ・キング」2ndシングル「メイク・ア・リヴィング」の大ヒットにより世界的名声を経た後、’84年の7月、デビュー・アルバム「ダイヤモンド・ライフ」を発表。英初登場2位に輝いた本作は、アメリカ、日本(同11月に初の来日公演も行う)においても記録的な大ヒットとなり、世界で600万枚を超えるセールスを上げた。
翌’85年、2ndアルバム「プロミス」を発表。全英/全米アルバム・チャート1位に輝いたこの作品は、「スウィーテスト・タブー」の大ヒットもあって、この年のグラミー賞の最優秀新人賞も獲得、世界的名声も得る事となった。

それから3年後、1、2作目をプロデュースしたロビン・ミラーからも離れ、エンジニアのマイク・ペラと共に所謂セルフ・プロデュースで制作したサード・アルバム「ストロンガー・ザン・プライド」を’88年に発表。全英で最高3位、全米でも同7位と好成績を残すも、予定されていたワールド・ツアーも行なわれず、シャーデーは以後、長い充電期間に入る事となる。

そして約4年半に及ぶ沈黙の後発表されたのが’92年11月に発表された「ラヴ・デラックス」。彼女の芸術的且つ官能的なヌード・フォトも大きな話題となったこの作品は全英で最高10位、全米で3位を記録した。

翌’93年3月から約7年振りにワールド・ツアーを開始。アメリカ、ヨーロッパ、日本を廻って、その後再びアメリカで大規模なスタジアム公演も行った。因みに10月3日に行われたサンディエゴ・オープン・エア・シアターでのコンサートは「シャーデー・ライヴ」としてリリースされた。 

翌‘94年11月に発表されたベスト・アルバム「ザ・ベスト・オブ・シャーデー」は全英で最高6位、全米でも最高9位と、根強い人気を裏付ける成績を記録。しかし、この後、彼女が妊娠、出産(’98年7月、娘アイラ)したこともあってアデューは再び長い充電期間に入ることとなる。(尚、グループ、シャーデーが活動を休止している間、メンバーのスチュアート・マシューマン、ポール・スペンサー・デンマン、アンドリュー・ヘイルの3人はアメール・ラリューをヴォーカルに迎え、’96年、スウィートバックを結成、アルバム「スウィートバック」をリリース。また、マシューマンはマックスウェルのデビュー作をプロデュースした他、アメリカ映画「ツイン・フォールド・アイダホ」の音楽を手掛けている)

その後、約7年振りの復活を遂げ2000年に発表された「ラヴァーズ・ロック」は、これまでになく“生々しく”“剥き出しな”サウンドが特徴的な意欲作としても話題を呼び、全米3位、全英18位を記録。一貫して”愛”をテーマに歌い続けて来た彼女に今度は母親としての情感の豊かさが加わったこの作品で全世界を魅了した。 

そして2010年、春。10年振りとなる新作が遂に到着。そして世界は再び、シャーデー色に染まる。