ジョン・ウィリアムス(ギター)
現代のクラシック・ギター界に君臨する唯一無二の帝王、“キング・オブ・ギター”ジョン・ウィリアムスは1941年4月にオーストラリアのメルボルンで生まれた。父はジャズ・ギタリストとして高く評価されていた音楽家であり、1930年代にイギリスからオーストラリアに移住、そこでジョンの母と出会っている。ジョンが初めてギターを手にしたのは4歳の時だった。父から楽器を譲り受け、たちまちその魅力に取り憑かれたジョンは、父の方針でもっぱらクラシック作品ばかりを演奏していたという。

1950年代に入るとウィリアムス一家は再びロンドンに戻った。父はロンドンでギター教室を開き、この頃には既にその才能の片鱗を見せ始めていたジョンに最上の音楽教育を与えるべく奔走し、息子を“ギターの神様”アンドレス・セゴビアに引き合わせる。少年の類い希なる才能を認めたセゴビアは、自らの元で勉強を続けることを勧めた。

かくして若きジョン・ウィリアムスは夏はセゴビアの元で、それ以外の時期はロンドンの王立音楽院に通いながら勉強を続けた。当時のクラシック界全体の風潮を反映し、王立音楽院ではギター部門が充実していなかったため、ジョンはここではピアノと音楽理論を学び、卒業後まもなく、ジョンは新しく設立されたギター部門を任されることになった。

ジョンのプロとしてのデビュー・リサイタルは名門ウィグモア・ホールで行われた。1958年の11月、まだ18歳に手の届かない青年が満場の観衆を前に堂々たるパフォーマンスを披露した。それはスター誕生の瞬間だった。

このコンサートを見たセゴビアは弟子をして「音楽の世界にギターの貴公子が降り立った」と評した。

それは後に何年間にも渡り、ジョンの評価を固める一言であった。



1963年にジョン・ウィリアムスは初来日を果たしている。その直後、CBS(当時・現ソニー・クラシカル)とレコード契約を締結、1964年にデビュー・アルバム『CBS presents John Williams』を発表し、同年の12月にニューヨーク・デビューを果たした。まさに飛ぶ鳥を落とす勢いでその評価は上っていった。

ジョン・ウィリアムスの、ギタリストとしてのキャリアを語る際にジュリアン・ブリームの存在を無視するわけにはいかない。セゴビアが世界中でクラシック・ギターの世界を拡大しつつあった中、ブリームはクラシック音楽の世界におけるギターという楽器の地位を高めるべく尽力していた。ジョンとブリームはたちまち互いの才能を見抜き、意気投合して新しいクラシック・ギターのムーヴメントを創りあげるべく原動力となっていった。二人はたびたび共演を果たし、それは70年代の後半まで続いた。そして彼らの素晴らしい才能の輝きによってクラシック・ギターの世界は大いに盛り上がっていったのだった。



1969年にウィリアムスは映画音楽家/編曲家のスタンリー・マイヤーズと出会う。当時マイヤーズは『The Walking Stick』という映画のスコアを手がけており、そこで使用するつもりのフレーズをジョンにピアノで弾いて聴かせた。たった3小節のフレーズだったが、いたくその音を気に入ったジョンはマイヤーズにそれを発展させてギター曲に仕上げるようにけしかけた。結果生まれた曲がジョンの代表曲「カヴァティナ」であり、後に映画『ディア・ハンター』で使用され、ジョンの代表曲となっているのである。その後もマイヤーズとの交流は続き、クラシックのみならず様々な切り口での共演が実現している。ジョンの音楽を語る上で忘れてはいけない存在である。

1970年代に入ると、クラシック音楽の演奏家としての自分に飽きたらず、ジョンは様々な可能性を追求し始めた。チリのグループ、インティ・イリマーニとの共演や、ギリシャのマリア・ファランドゥーリとの共演はそういったジョンの思想性と、音楽的な発展性を表現していた。

さらにこの頃からジョンはクラシックをベースとしたフュージョン・ミュージックにも興味を持ち始め、様々なスタイルで実験的なサウンドを追求し始めた。クラシックのコア・ファンやメディアからは道草を食っていると酷評されながらも彼はエレクトリック・ギターを手にするなど、そのサウンドの幅を広げていった。マイヤーズとのコラボレーションやブリームとの共演など、この時期のウィリアムスはあらゆる意味でアーティストとして充実した時期を送っていた。そして1979年、ついにジョンは純然たるフュージョン・グループ、スカイを結成する。

スカイはジョンが真剣にジャズ/フュージョンに取り組んだ記念すべきグループであり、その大胆な動きに賛否両論が巻き起こった。だがその後5年間に渡り、ジョンはスカイでの活動に没頭し、精力的な音楽活動を続けた。

1983年にジョンはスカイを離れ、再びクラシック音楽の世界に戻ってきた。翌年にはダニエル・バレンボイムが立ち上げたサウス・バンク・サマー・ミュージック・フェスティヴァルの音楽監督の座に就き、成功を収めた。この年の10月にはサイモン・ラトルとともに武満徹の「虹へ向かって」を初演している。ジョンは後にこの作品をロンドン・シンフォニエッタと一緒にレコーディングしている。80年代後半には精力的にヨーロッパ各地をツアー、イギリス音楽界を代表するコンサート、プロムスにも初出演を飾っている。

90年代に入ってからはパコ・ペーニャやインティ・イリマーニなどとツアーを行う一方でオーストラリア室内管弦楽団や新しいアンサンブル、ATTACCAなどでの活動を充実させた。そして1995年には実に25年ぶりとなる日本ツアーを実現、熱烈な歓迎を受けた。以後、日本には約2年に一回のペースで来日を果たしている。アルバムも精力的にリリースを続けており、2000年には最新作となる『マジック・ボックス』をリリースしている。アフリカ音楽の伝統の奥深くに息づくギターという楽器の源流を追い求めたこのアルバムは根源的な喜びに満ちあふれた素晴らしい作品集であった。60になってもその創作意欲は衰えをしらない。まさに驚嘆すべき音楽家であるといえよう。