ジョエル・ラファエル

 

シンガーソングライター、フォーク・ミュージシャンのジョエル・ラファエルが曲を書き、演奏し始めて50年以上の年月が経つ。初めてのバンドは小学6年生でドラマーとして参加したジャズ・コンボ。中学でジャズからサーフ・ミュージックに転向。60年代初めになると、当時台頭していたフォーク・ミュージックにのめり込むようになる。最初のギターはティワナで手に入れた安ギター。いくつかのコードが弾けるようになったラファエルは、貰い物のライフルを売った金で”多少マシな” ギターを購入。通っていた高校の常駐フォーク・ミュージシャンとなり、フーテナニーやチャリティ・コンサートなどに出演し、腕を上げて行く。自作の歌詞とメロディを合体させたフォーク・ソングのレパートリーも増え、高校3年になる頃には本来なら年齢制限で出入りが許されぬクラブでのギグを行うまでになっていた。

 

ベトナム戦争が本格化し、徴兵を免れるためにカリフォルニア州立大学フラートンに進学したラファエルだったが、在学したのは2学期だけ。「トゥルバドール」や「アッシュ・グローヴ」があるロサンゼルスに居を移し、演奏を続ける。が、やがてそういったクラブではロック・グループが主流になっていく。学生免除の対象外となり、またしても徴兵の手が及ぶ可能性が出て来たラファエルは北のオレゴン州を目指す。法を犯している者、芸術家、ライター、その他何をしているのか分からない者らの一団とともに。「その頃には、そこそこの曲を書けるようになっていたので、ソングライティングをさらに追求する良い時期だった。LSDや幻覚的実験の全盛期だったこともあり、内面に目を向けるようにもなった。成長と自己発見の時代だったよ」

 

ポートランド市当局が行った大掛かりな”手入れ”で、ラファエルはハシシ所持で逮捕。2件の罪で5年ずつ同時に(計10年の)執行猶予付きの判決を受け、釈放後はオレゴン州以外への転居が命じられる。徴兵から逃れ続けるラファエルはロサンゼルスに戻り、ノース・ビーチ・レザー社で働きながら、豊かな音楽シーンを作り上げていたローレル・キャニオンでソングライティングに磨きをかける。そんな時、”昔ながらの”レザーショップを開店するという友人のお供でシアトルを訪れたことがきっかけで、ラファエルは山での隠遁生活に入る。北の大自然に囲まれたシンプルな暮らしの中、多くのことを考え、それが楽曲に繋がっていった。

 

しかし徴兵の手はついにカスケード・マウンテンにまで及び、健康診断を受診せよとの通知が届く。それを逃れ、ノース・サンディエゴ郡に移ったラファエルは10エーカーの農場でアボカドを育てる生活を始める。1年も経たず、徴兵制度がついに廃止。ラファエルの執行猶予期間も終了した。ティーンエイジャーの理想主義を歌っていたそれまでとは違い、ラファエルが書く曲には彼自身の人生、家族、そして目にする世の中が映し出されるようになった。ある時、ロサンゼルスで誰かの前座を務めていたジャクソン・ブラウンを偶然耳にする。「その誠意ある、まっすぐな歌に、とても大きな影響を受けた。ソングライターとしての自分を見つけたのは、この時期だと思う。それまでいくつもの要因が重なって音楽的な成長を阻まれて来たが、それがすべて取っ払われた。その時、真剣にソングライティングを突き詰め、良い曲を書きたい、という自分の気持ちに気づいたんだ」

 

こうして、ほど近いエンシニタスの「ブルー・リッジ・ギター・ショップ」で、ラファエルは”本物の”オーディエンスを前に、再び曲を演奏するようになる。そこで知り合い、生涯の友となったのがイーグルスの楽曲で知られるソングライター、ジャック・テンプチンだ。70年代後半は南カリフォルニアを中心に、ロージー・フローレスとのデュオを始めとするいくつものグループで活動。80年代初めは、サンディエゴの地元プロモーターが手がける大物アーティスト達のステージにオープニング・アクトとして登場、シンガーソングライターとしての力をつけて行く。1981年、サンディエゴ在住ソングライター、リチャード・ボーウェンと、初となるアルバム『Dharma Bums』をレコーディング。その直後にはジェシ・コリン・ヤングの南西部ツアーの前座に起用される。90年代初め、ポール・ロスチャイルドの協力を得て、ジョエル・ラファエル・バンドが結成される。

ジョエル・ラファエル・バンドとしてリリースしたのは『Joel Rafael Band』(1994年)と『Old Wood Barn』(1996年)の2枚。3作目『Hopper』(2000年)は、ジャクソン・ブラウンのレーベル、インサイド・レコーディングスからのリリースとなったが、この3枚目がバンド最後のアルバムとなった。2002年、ラファエルは娘でヴァイオリン奏者のジャマイカ・ラファエルとギタリストのカール・ジョンソンと、ジョン・スタインベック生誕100周年記念、フランク・ギャラティ版舞台『怒りの葡萄』の音楽スコア(5曲の新曲を含む)を手がけた。ロサンゼルス、スカーボール・センターで1週間上演されたこの作品はライヴ・レコーディングされ、NPRアーカイヴに収められている。

 

ウディ・ガスリー・フェスティバルに5年連続で出演したラファエルは、ほぼ全曲ウディ・ガスリーの楽曲を集めた(1曲はラファエルのオリジナル、もう1曲はガスリーの曲にスポークンワードを合体した)アルバム『Woodeye』(2003年)を発表。それから2年も経たずして発表された『Woodyboye』(2005年)はまたもやウディ・ガスリー作品集だった。うち4曲は、娘ノラ・ガスリーから託されたウディが遺した歌詞に、ラファエルが新たな曲をつけた二人の”共作”だ。こうして6年間、ウディ・ガスリー関連のレコーディングに向き合い、その後もシンガーソングライター達によるガスリーのトリビュート・ツアーに参加したラファエルだったが、そろそろ自作の曲に戻るべき時期が来た。アルバム1枚には十分な新曲も貯まっている。ラファエルはオースティンに向かった。そして地元のアイコン的存在で、オクラホマ州スティルウォーター出身のジミー・ラフェイヴのバックを務めるミュージシャンらと13曲を録音。ラファエルのオリジナルと、スティーヴ・アールの「Rich Man’s War」やジャック・ハーディの「I Ought to Know」のカヴァーを含む『Thirteen Stories High』(2008年)が完成した。

 

続くオリジナル・アルバム『America Come Home』をリリースした2012年は、ウディ・ガスリーの生誕100周年の年。ラファエルとガスリーの”共作曲” 2曲は「Every 100 Years: The Woody Gutherie Centennial Songbook」に収録された。その年は、全米各地でウディ・ガスリー・アーカイヴとグラミー・ミュージアムによるトリビュート・コンサートが行われ、ラファエルもその何日かに登場。2012年の最終日、ワシントンDCのケネディ・センター・フォア・パフォーミング・アーツでのコンサートはテレビ放映された。

 

ソロ・パフォーマーとして、バンドを率いて、ラファエルは数々のアーティストのオープニングを務め、共演を果たしている。その一例はエミルー・ハリス、ジャクソン・ブラウン、ジョーン・バエズ、ジョン・リー・フッカー、アーロ・ガスリー、ボニー・レイット、ジョン・トルーデル、ローラ・ニーロ、クリス・クリストファーソン、ダー・ウィリアムズ、ランブリン・ジャック・エリオット、オデッタ、タージ・マハールなど。

 

2015年にリリースされた9枚目『Baladista』は人間の精神を祝い、一人のアメリカ人ソングライターが二半世紀にわたって歩んできた旅を振り返る10曲の珠玉のバラード集だ。

そしてジョエル・ラファエル最新作『Rose Avenue』(2019)からは、いかに彼がアメリカの規範になくてはならなかったかが奥ゆかしく語られる。9曲のオリジナルを含む収録曲10曲を通じ見えてくるのは、70歳となった男の誠実な生き方そのもの。『Rose Avenue』からはラファエルが曲作りを通じて人生に見出してきた洞察と同時に、これまで行ってきたこと、そしてこれから先に待ち受けていることへの、心からの感謝の気持ちが読み取れる。